2018/01/06

川上和人「鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。」感想

 帯に「売れてます! 笑えます! 続々大増刷」とあり、そんなに話題の本だったかと思いながら手にとって見ると、帯のはしっこに小さな文字で「ただし鳥部門(笑)」とあったりする。

 理系人間が書いた面白い本は、去年、前野ウルド浩太郎著「孤独なバッタが群れるとき」を紹介した。本作も同じように面白いのかと思って読んでみたが、残念ながら、「孤独なバッタ・・・」ほどは面白くなかった。 

 本作はあちこちに、受けを狙った表現や親父ギャグが出現する。例えば「次の敵はいよいよピッコロ四人衆だ。付け焼き刃の修行ではかめはめ波は少ししか出なかったので、調査前年からクライミングジムに通い始める」というような感じ。・・・実に親父っぽい。

 一方「孤独なバッタ・・・」は、受けを狙った訳ではないのに、ナチュラルに、天然に、面白い。そこがすごい。

 笑いが、作為的かそうでないかの違いは大きい。

 とはいえ、おじさん世代が嬉しくなってくる表現もある。一例として、アカガシラカラスバト、愛称アカポッポの頭がなぜ赤いのかを説明する章を引用しよう。

「ザク等とジオングには大きな違いがある。前者はいずれも量産型のカスタムモデルに過ぎないが、ジオングは1機しかない試作機だったということだ。(中略)ここで小笠原に視線を戻すと、オガサワラカラスバトという別のカラスバトの分布記録があることに気付く。この鳥は、アカポッポと近縁のやはり全身が黒いハトだった。これが、いわゆる量産型ザクである。(中略)アカポッポの頭が赤いのは、オガサワラカラスバトと形態的な差別化をするために進化した帰結と考えると、実に合理的である。」

 ガンダム世代なら、この説明でアカポッポの頭が赤い理由が一発で納得できること間違いなし。つまり本作は、読者の年齢層が限られる点に問題があると言えよう。

 本作は、実は最後の第六章が、本当の執筆理由ではないかと思われる。

 2011年、ハワイのミッドウェイ環礁で新種の鳥が見つかった。実は筆者は、同じ鳥を2006年に発見していながら、「他の人にも簡単に見つけられまいし。今、忙しいし」といった理由から、新種としての論文発表をほったらかしてしまったのである。「あぁ、やってしまった。いや、やらないでしまった」という猛烈な後悔が、本書を執筆するエネルギーとなったのではあるまいか。

 最初から最後まで、一貫して親父臭い表現が続くのだが、それさえ我慢できれば、本書はなかなかに楽しい一冊であると言えよう。

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2017/12/30

松永淳+田中渉「きっと嫌われてしまうのに」感想

 以前、このコンビの作品「ラブかストーリー」を紹介したのですが、相変わらず本作も、人前で持つには恥ずかしい表紙をしていて困りました(笑)。

 大どんでん返しが売りの青春小説です。

 とはいえ、途中であちこちにヒントが差し挟まれているので、結末を薄々予感しながら読むことができます。このあたりのさじ加減は絶妙! でも、読みやすい口語調の文体なので、じっくり考えもせず、先が知りたくてどんどん読んでしまい、あああそうだったのか・・・というパターンに(笑)。

 このパターンは乾くるみの名作「イニシエーション・ラブ」と似ています。

 ついでに言うと、中学生が読むにはちょっと・・・なシーンが多発するところも同じ(笑)。高校生以上におすすめします。 

 きちんと分析しながら読みたいという方は、年表を作りながら読むといいでしょう。特に震災の発生年と、パンダの来日年と、中日の山本昌投手が最多勝投手となった年。あと、ケータイが高校生に普及しだしたのが、いつごろだったか。

 タイトルの意味もラスト近くで「すとん」ときます! 泣かせます。

 世間では全く話題になっていない本作ですが、エンターテイメントとしてなかなかな小説だと思います。あとはドストエフスキーの「罪と罰」と関連する部分に、もう少し必然性があれば・・・とか、過去の大震災をこの手の作品で扱っていいのか・・・とかがクリアできていれば、文句なく第一級のエンターテイメント小説と言えるのではないでしょうか。

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2017/12/24

佐藤 究「Ank : a mirroring ape」感想

 SF小説です。

 しかも大風呂敷広げすぎの(笑)。

 きちんとした科学的な説明を求める人は、本書を手にしてはいけません。理系の人が読んだら唖然とすること間違いなし。

 科学的知識をうまく使って、読者を鮮やかに別世界へ連れて行ってくれるタイプのSFでもありません。つまり騙し方が下手。

 ネタバレになるので、ぼかして書きますが、人間のAという能力は、遺伝子Bの有無に関連がある、とおっしゃるのです。さらに人間がCという状態になっている時間と、太陽のDの時間は同じであるとも。・・・一体どこにその根拠が? 論理的な説明も証拠もなく、一体誰がこんな話を信じるのか? あんたはどこかの宗教団体か?

 元ネタとなる類人猿やDNAに関する科学的知識は、ネットで検索したり、出版物を読んだりすれば、誰でも手に入れられるものばかりです。どこかのすごい大学に入る必要はありません。むしろそれらの比較的ありふれた知識ををどう料理するか、そのアイディアのほうが、SF小説を創作する上でのキモなのですが・・・。

 そもそもミラーニューロンが働かない人間(共感能力が欠如する)も、世界には一定数以上いることがわかっているので(いわゆるサイコパス)、人類の何割かは、本書の暴動に巻き込まれない可能性があると思われます。

 さて、そういったSF部分のいい加減さには目をつぶって、サスペンス部分に注目して読んでみると、これがまた、テンポが悪いのです。例えば、半分ほど読んだところで、暴動を引き起こした犯人と、その手段が判明するのですが、そこから作者が引っ張る引っ張る(笑)。同じような展開が何度も繰り返されます。これ、後半は半分にならなかったのでしょうか? 私は読んでいて飽きました。

 

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2017/12/03

中村航「無敵の二人」感想

 ボクシング小説、しかも実話ベース

 北海道出身の元日本ライトフライ級チャンピオン畠山昌人と、彼を育てた女性トレーナー赤坂裕美子(本作では「ひかる」という名前で登場)のドラマ。

 最初は「ねえ、ムシケン! ぐるっとやって、ねえ、ぐるっと!」というひかるのセリフでスタートする。ムシケンは「ちょっ、ちょっち、ひかるちゃん!」などど声を出す。もちろん、ムシケンとは具志堅用高のことで、現在読売新聞で自伝が連載中なのである。それによると「ちょっちね」というのは、「ちょっと」という意味ではなく「そうですね」であるらしいのだが、本作では「ちょっと」の意味で使われる(笑)。

 いきなり世界チャンピオンと遊ぶ小学生の女の子のシーンで始まるのだから、驚きである。さらに本作、ひかるの小学生時代の天衣無縫ぶりがこれでもかと描かれる。ひょっとしてこれはボクシング小説ではなく、ひかるの担任教師ナカザワの教員苦闘ドラマなのか? と思ったりする。だが、読んでいる最中は「ボクシングはいつになったら始まるのか」とか、そんなことはこれっぽっちも思わず、ただただひたすら、男子軍団のリーダーで、しかも女子たちからも慕われている赤沢ひかるの人間的魅力にとりこになっていたのである。

 ちなみに小学生時代、ひかるは同級生の田川君と親友の誓いを交わす。当然これは成長してからの伏線かなにかだろうと思いつつ読むわけだが、残念ながら田川君はこれっきり二度と出てこない(笑)。同じく中学生になったひかるは、男友だちのイケダくんから「おれたち、付き合おうぜ」と告白され「あー、うん」とOKし、しばらく付き合うのだが、このイケダくんもこれっきり二度と出てこない・・・。この潔さ(笑)。いやあまさしく実話ベースだなあ。赤坂ひかるがどんな子どもだったかを語るための一登場人物としての扱い(笑)。

 (さらについでに本作、ひかるたちはガンプラに夢中になったりする。ザク、旧ザク、グフ、ズゴック、ドム、ゲルググ、ジオング・・・)

 この少女が、25歳になった時、父親の入院を機にボクシングジムを継いで、トレーナーの道を歩むのだ。

 もう一人の主人公畠山が登場するのは138ページになってから。ここから本作は本格的なボクシング小説になっていく。しかもこの畠山のボクシングスタイルが、とてつもなくストイックでかっこいい。試合前に右の拳でとんとんと左胸を叩く。試合が始まると愚直なまでに前進し、内側からコンパクトに連打する。やがて試合後半になり、持久力に勝る畠山が、ついに相手を一方的に連打する時間がやってくる。畠山の「絶対時間」・・・。正直しびれた。途中審判のミスジャッジによる不運にも見舞われるが、そこからの再起シーンが、またとてつもなくかっこいい。

 ボクシングファンのみならず、やんちゃでわんぱくな少年少女時代の話が大好きな方は、本作は必読であると言えよう。

 

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2017/11/18

森絵都「出会いなおし」感想

 随分印象が変わったな。あれ、こんな作家さんだったっけ?

 短編六つ。

 一作目の「出会いなおし」は、まるで森絵都本人の回顧録のよう。

 27歳(推定)の時の「宇宙のみなし子」は、当時の中学校読書感想文課題図書だったように思うが、とにかく瑞々しさがページから溢れていた。屋根の上に登って星を見たくなった。

 31歳(推定)の時の「カラフル」は、歴史に名を残す傑作だった。SNSに「死にたい」と書き込む人は、これ読んでないんじゃないの? スマホいじる暇あったら、本読めよ。

 そして34歳(推定)の時の「DIVE!!」は、スポーツ青春小説の王道だった。マネして同じパターンの小説やマンガが、後から後から、まさしく「雨後の竹の子のように」現れたものだ(駅伝とか、野球とか・・・とか・・・とか)。

 ところが、ここから森絵都の筆は急に衰える。37歳(推定)の時の「風に舞い上がるビニールシート」は、一体どうしちゃったんだろうという作品である。中途半端におばさん臭いのだ(直木賞はとったんだけどさ・・・)。

 「出会いなおし」を読むと、なるほどあの頃はそういう心境だったのね、と得心する。

 そして今、充電されて、吹っ切れて、さらに中年おばさんパワーを手に入れ、過去の森絵都とは違う森絵都に生まれ変わったわけだ。

 特にその威力が遺憾なく発揮されているのが二作目の「カブとセロリの塩昆布サラダ」である。途中カブ料理のレパートリーが延々と述べられるのだが(なんと1ページ半も!)、よくまあ編集者も妥協したものだ(笑)。おばちゃんだからこその押しの強さを感じた。しかもたかが「カブとセロリの塩昆布サラダ」の話で、ここまでドラマチックに展開しますか! 泣かせますか! 笑わせますか! とにかく吹っ切れ方がすごい。新生、森絵都である。いやびっくり。

 人生の重要な岐路で、実在しない人物がアドバイスを示してくれるパターンの話が二つある。こういうちょっとファンタジーっぽい書き方は、「カラフル」を思いださせる。また、随所に散りばめられた比喩表現は、しばしば私の胸に、真ん中どストライクで衝撃を与えてくれる。こういったところも昔の森絵都のまま。

 そういうわけで、昔のファンも、最近ファンになった人も、どちらも楽しめる一冊。

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2017/11/12

千早茜「ガーデン」感想

 この小説の主人公羽野、一般的には「草食系男子で帰国子女」というレッテルを貼られるのだろう。しかし羽野は、強烈にそのレッテルを拒絶する。そういう典型的なパターンの小説ではないのだよと。

 偽善が嫌い。人間づきあいが嫌い。人間とよりも植物と暮らすほうがよっぽどマシだというキャラ設定。人間や生物のにおいに過敏に反応するあたり、アスペルガー症候群の一種かと思わせる描写もある。

 少年時代の羽野が、海外で老婆にジュースを渡し損ねる体験が強烈。その記憶が「人に感謝されたいという欲求がない」特異な性格を形成する。

 自分を周囲に押しつけないので、おかげで女の子たちにはやたらと人気が高い。同僚のタナハシにモテ、モデルのマリにモテ、バーテンダーの緋奈にモテ、人妻の矢口さんにモテ、バイトのミカミさんにモテ、先生の愛人理沙子さんにモテる(こういう設定に虫酸が走る人は、本書は手に取らないほうがよかろう)。

 羽野の周辺の女性たちは、皆、羽野に近づき、羽野に話を聞いてもらいたがる。「私を見て」「私に気づいて」「私をかまって」光線を出しまくる。だが、結局女の子たちは、皆羽野から離れていく。羽野が、彼女たちの願望を知りながら、何一つかなえてあげないからだ。

「自分の好きなものをわかってもらいたいと思ったこともない」「それって、さみしくないですか」「さびしくない」

 最近教育現場では、「自尊感情の育成」がキーワードとなっている研修が多い。自分で自分に価値があると感じる人間は、他人の評価を必要としない。自分に価値を感じない人間は、他者の評価を気にする。他者にほめてほしい。「きれいだね」「がんばってるね」「すごいね」と言われたい。「一緒にいてほしい」と言われたい。SNSがこんなにも大流行している背景には、自尊感情を持てない人間がそれだけ多いという事情があるのだろう。そして、みんなこじらせる。

 例えば、本作に出てくる女性タナハシは、出社拒否症に陥り、バイトのミカミちゃんは、「自分を殺すことを愛や喜びと思」うことで、若手男性社員との出来ちゃった婚に進む。そのほか、いきなり行方不明になる女の子が二名も出てくる始末・・・。

 女流作家らしく、女性の性格の恐ろしい部分を見事にえぐって描写する。だから、羽野は悩む。自分の対応が間違っていたのだろうかと。

 今後も注目したい作家である。

 追記

 序盤で雑誌の取材のため、京都に行くシーンがあるが、京都の魅力をよく捉えていると感じた。作者は京都に住んでいたことがあるのだろうか? また、コケとSNSの共通点についての考察もなかなかおもしろかった。

 

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2017/11/05

伊坂幸太郎「ホワイトラビット」感想

 伊坂氏の新刊

 いつもの伊坂氏の作品とはちょっと様子が違う。p182まではとにかく、一体誰が本作の主人公なのか、さっぱりわからないのだ。一人称が兎田だったり、春日部課長代理だったり、つまり多視点で語られるドラマというのもある。「レ・ミゼラブル」を模して、あちこちに突然作者の語りが差し挟まれたりするのも一因だろう。「ここで一度、時間を巻き戻し、~の場面に戻そう」みたいに、これは実はこの後こうなるんだが、ひとますそれはおいておいて、今はこっちの話をしておこう的な語りが多く、時系列がぽんぽん飛ぶ。おかげで小説というよりは、なんだかテレビドラマの脚本を読んでいるみたいに感じたりもする。

 それが、p182からは一気に主人公が誰なのかが明確化し、ドラマはぐんぐんと加速し、それまでの伏線をひょいひょいと拾い集めて繋ぎあわせ、怒濤のエンディングを迎える。このあたりの展開の爽快さは、まさに今までの伊坂氏そのもの。

 p182までは、なかなか思うようにドラマが進まないし、それぞれのドラマがどう繋がるのか見当もつかないしで、読んでいて不安になってくると思う。しかし、是非想像力を働かせて、このややこしいパズルが、どう繋がっていくのか、推理しながら読んでほしい(私は今回、残念ながら全然わかりませんでした)。

 さてここからはどうでもいい追記。

 本書、P15の「ごめんね祇園精舎、悪いね沙羅双樹」の次のところに、「兎田が『平家物語』を知っている可能性は低く」とありますが、いや、かなりの確率で知っていると思います。なぜなら平家物語冒頭部分は、中学2年の国語の教科書に載っており、さらに言えば、ほぼどこの中学校でも、暗記させられることになっているからです。

 p91の中村の台詞。「アリさんとな俺たちを一緒にしないでくれ」・・・校正漏れですね、第二版以降は果たしてなおっているかな新潮社。

 

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2017/10/29

ベルンハルト・シュリンク「階段を下りる女」感想

 ドイツの小説。2014年に出版され、あちらではベストセラーになったとのこと。

 「階段を下りる女」というタイトルの絵を巡って、ドラマは始まる。画家シュヴィントと、絵のモデルであるイレーネ。絵の所有者兼イレーネの夫グントラッハ。そして絵の所有権を画家シュヴィントに戻すことと引き替えに、モデルのイレーネとグントラッハを復縁させるという契約書を作成するために雇われた弁護士の「ぼく」の四人が、主な登場人物。

 若い時の「ぼく」は、イレーネを夫グントラッハから解放し、さらに彼女と駆け落ちすることを夢想し、彼女の脱出劇に荷担する。だが、自由になったイレーネは「ぼく」の思い通りには行動しない。彼女は行方不明のまま、40年の月日が経つ。ここまでが第一部。

 第二部では、イレーネの住居を「ぼく」が突きとめ、訪れるシーンから始まる。そして、どうやらイレーネが重い病気を患っているらしいことに「ぼく」は気づく。

 そこで「ぼく」は突然、介護問題について語り出す。次のように。

「誰もが仕事はしなければならないわけだが、仕事を辞める時点を自分で決められるのが、本来は正しいあり方だろう。その時点が来たら、社会は三年間、彼が自分にふさわしく、快適だと思う生活に必要な金を払い続けるべきだ。そのあと、彼は人生に別れを告げなければならないが、どのようにして死ぬかは自分で決められる。そんな政策は実行不可能だとわかってはいる。だが、それが実行できれば我々の高齢化社会の問題が解決されるだけではない。その政策はすべての人に自分の人生をコントロールする権利を与えるだろう」

 驚いた。今の民主主義の国家では絶対に不可能な政策だから。だが、かつての日本では、例えば鎌倉時代の西行法師のように、自分の死期をコントロールしても構わない時代があった。そもそも仏教は、釈迦が、自分の死期をコントロールする入滅を行っている。生きる権利と同じように、死ぬ権利が皆にあったのだ。

 やがて、イレーネの家に、かつての夫グントラッハと、画家シュヴィントがやってきて、絵の所有権について議論を交わす。

 第三部でイレーネは、自分の人生に別れを告げる前に、自分の人生をコントロールする。思い残すことがないように。そして彼女は、どのようにして死ぬかを、自分で決めるのだ。

 「ぼく」は、もし40年前に、イレーネが自分と駆け落ちしていたら、どんな人生を送ることになったか、その空想を、病床のイレーネに聞かせる。その語りの中で、「ぼく」は自分の人生を、かつて確かに作ったはずの「砂の城」を思いだす。そしてどうやらその作業が「ぼく」の心の癒やしになっているようなのだ。

 若い時に絵のモデルだったイレーネ。40年の月日がたったということは、第二部以降のイレーネは、おそらく60歳後半。「ぼく」のほうはおそらく70歳前後。画家シュヴィントと、元夫のグントラッハにいたっては、おそらく80歳前後の高齢者と考えられる。つまり本作は、じいさんとばあさんが、自分の人生の最期をどうコントロールするかを描いた作品というように読むことができる。

 じいさんばあさんの最期の話なのに、読後感は実に美しい。

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2017/10/22

小野寺優「ラノベ古事記」感想

 太宰治の文庫本「人間失格」の表紙を、ラノベタッチにしたら売れたらしい。

 馬鹿売れした「キミスイ」とかの表紙も、ラノベタッチだし。

 今はなんでもラノベ風にすりゃあ売れる時代! という安直な発想のヤツかと思って読み始めたが、本作、ちょっと様子が違う。

 各章のページを開くとその裏に、「CHARACTER CHART」なるものがあり、主な登場人物のイラストと解説がある。稗田阿礼(ひえだのあれ)についての説明がこうだ。

「一度見たり聞いたりしたものは忘れない」という特殊能力を持っていたため、28歳の時に天武天皇にスカウトされ、日本の歴史や系譜を暗唱。

 なるほど彼は今で言うところのサヴァン症候群だったのか。納得!!

 そして「序」の部分。今まで古事記の「序」の部分は、読んだことがなかったので、今回初めてその内容を知った(後で調べてみると、本作は一見おちゃらけたように見せて、かなり正確に口語訳してあることにびっくり)。おかげですごく勉強になった!!

 いよいよ本編を読み始める。とりあえず本作は、古事記の上巻の最後までを描いている。最近読んだ古事記では、こうの史代氏の「ぼおるぺん古事記」の印象が強く残っているので、どうしてもそれとの比較になってしまう。

 読み終えての結論。

 「ぼおるぺん古事記」は、作者こうの史代氏による、女性視点の解釈。男性の身勝手さを描いた作品だった。

 対して本作は、男性視点の作品。原作に見え隠れする「下ネタ」と「萌え」要素を、包み隠さず正直にあらいざらいに表現したらこうなっちゃいましたみたいな。

 大国主命の、手当たり次第に女に手を出すプレイボーイ部分の描写で特にそれを感じた。彼の別名が「八千矛神(やちほこのかみ)」である理由も、本作をよんで初めて納得(笑)。そうか、矛を使いまくってあちこちの女性を(以下自主規制)。

 ほとんどどこの図書館にも置いてある日本古典文学全集「古事記」と読み比べると、さらに本作の面白さが増す。そうかこのシーンはこういう解釈も出来るのか!

 なるほど、こういう読み方もありだなと。

 最後にまとめとして「跋」の章がある。そこで右大臣、藤原不比等が元明天皇にこう言うのだ。

「・・・古事記にはこちらに不都合な話が多すぎます」

「オオクニヌシの神話なんて、天皇の前にも別の王権があったことを認めているようなものじゃないですか。そんなん、わざわざこちらが正式に認めなくてもいいでしょう」

 今まで、みんな心の中で思っていても、口に出してこなかったことを、本作はずばり言っちゃってる! この潔さ。ラノベ風だからこそ、できたのではないか?

 面白かった!

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2017/10/14

天野純希「信長嫌い」感想

 信長が主役ではなく、信長のせいでいろいろと苦労したり、苦汁をなめさせられたりした方々が主役の小説である。

 全部で七話。

 第一話=今川義元(説明いりませんね)

 第二話=真柄直隆(朝倉義景配下の武将。 姉川の戦いで徳川家と戦い討死)

 第三話=六角承禎(信長上洛時に観音寺城に立てこもり抵抗するも敗北)

 第四話=三好義継(信長上洛までは大阪と京都を支配。将軍足利義輝を殺害)

 第五話=佐久間信栄(信長配下の武将。のちリストラされる)

 第六話=百地丹波(信長を暗殺しようとしてことごとく失敗した忍者)

 最終話=織田秀信(信長の孫。幼名三法師。関ヶ原の戦いで西側につき、敗北)

 ほとんどの作品に共通するのは、信長というとてつもなく大きな存在の前に、自分の存在意義が見つけられず苦悩する主人公の姿。そこそこがんばって出世したり、所領を広げたりしてきたのに、信長と比較すると、とたんに自分がちっぽけに見えてきてしまう。さらに、信長の悪運のあまりの強さに、信長は天から必要とされているが、自分はまったく必要とされていない存在なのではないかと自己嫌悪ループに陥るのだ。実に気の毒である。

 ただ、作者は、主人公たちが、最終的には自分の人生に満足して終わるようにストーリーを組み立てる。よい人生だったかどうかは、結果で決まるのではない。人生の岐路で、自分で自分が嫌いになるような選択をしてこなかったか。自分の性格に正直な選択をしてきたか。そのあたりが本作のテーマとなっているようだ。主人公の一人は「そうか。結局のところ、自分は誰かに褒めてもらいたいだけだったのか」と気付いた時に、吹っ切れる。

 そういうわけで、人生の敗北者たちのストーリーであるにも関わらず、読後感は実にすがすがしい。

 (追記) 最近、資料を多角的に読むことで戦国時代を見直す動きが盛んになっている。例えば長篠の戦いで鉄砲三段撃ちはなかったとか。本作では足利将軍義輝が、塚原卜伝免許皆伝の剣豪として、畳に突き立てた名刀を次々と取り替えながら寄せ手を鮮やかに切り捨てる姿が描かれる。これはどうやら江戸時代の創作であるらしいのだが、作者はそのあたりには深く突っ込まず、テーマを貫くため、エンタテイメントのため割り切って書いているようだ。

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