2017/09/10

エリザベス・ストラウト「私の名前はルーシー・バートン」感想

 筆者は2009年に「オリーヴ・キタリッジの生活」でピュリッツアー賞を受賞したニューヨーク在住の女性作家。

 本作は中盤で、主人公がセアラ・ペインという名の小説家のワークショップに参加する。そして書きためておいた小説の一部を見てもらい、次のような評をもらう。

「娘が入院したので、母親として見舞いに来て、なぜか堰を切ったように、ほかの人の結婚がだめになった話をする。自分でもわからないのね。そういう話をしようという意識はない」

 そういうわけで、本作の前半は、結婚に失敗した親戚やご近所さんたちの話が次々に登場する。

 まずはキャシー。わが子が通っていた学校の先生とくっついて、夫と子どもを捨て、町を出る。ところが頼りにしていた男が実はホモで、キャシーの人生の後半はじつにみじめで寂しいものとなる。

 次が母のいとこのハリエット。シガレットを買ってきてやると言って出ていったきり夫は帰って来ない。

 ハリエットの娘のドティは、何年か前に、旦那が他の女と消えてしまう。

 メアリの旦那が秘書と浮気をして十三年にもなるということが発覚。その女がものすごく太っていたことを知ったメアリは心臓発作を起こす・・・などなど。

 後半で筆者は次のように書く。

 「人間は優越感を欲しがるものだ。どうにかして自分の優位を感じていようとする。どこの人間も同じだ。いつでもそうなる。その習性にどんな名前をつけるにせよ、踏みつけにする誰かをさがさないと気がすまないらしい。人間の成り立ちとしては最下等の部分だと思う」

 主人公と母は、いつ退院できるかわからないという状況の中、「人間の成り立ちとしては最下等」である「他人の不幸」を話題にすることで、不安な気持ちをなんとか心の片隅に追いやろうとしている。

 終盤、主人公が離婚と再婚をするのだが、娘が母に、新しい夫のことをこう言うのだ。「いい人だと思うわよ。だけど、眠ったまま死んでいてくれていたら、なんてことも思う」主人公は、娘を深く傷つけてしまったことを知るのだ。入院中に他人事のように話していた人生の哀しみが、ラストで自分に降りかかってくるのである。

「いまでも思う。人生は進む。進まなくなるまで進む」

 ちなみに上記のような読み方は、たくさんある本書の読み方のうちの、一つにすぎない。読んでみるとわかるが、本書はもっと違う読み方もできる、複層的な厚みを持っている。

 セアラの、小説を書く姿勢についてのアドバイスが、なかなかにすごい。なるほど小説を書くというのはこういうことかと。まさしくプロ中のプロの小説家であるエリザベス・ストラウトが、劇中で架空の小説家となってアドバイスをしてくれているわけだから、実にありがたい話である。こんな風だ。

「貧困と虐待の二つを絡めてるところで、あれこれ言われるんじゃないかしら。」「でも言い返しちゃだめよ。自分の作品を弁護するなんてことはしない」「ただ、こういうものを書いていて、誰かしらを守ろうとするようになったら、それは書き手としておかしいんじゃないかってことは覚えといて」

 「必ず泣ける」とか、「最後の大どんでん返しにあなたは二度驚く」とか、売れる本ばっかり書いている日本の作家さんたちには、ぜひ本書を何度でも読み返してほしい。

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2017/08/24

江國香織「なかなか暮れない夏の夕暮れ」感想

 読書あるある! を、入れ子構造の劇中劇小説に応用しましたという感じ。

 本書の主人公・稔の趣味は読書。稔が読んでいる本のストーリーと、稔の周辺の人々のドラマが交互に語られるのだが、そのつなぎ目が唐突なのだ。例えば次のように・・・。

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

何が起きたのかわから

「稔」

肩をつつかれ、見るとすぐそばに雀が経っていた。

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

 一行目は稔が読んでいるハードボイルド小説である。読書に夢中になっているところに、妹の雀が突然訪問してきて、稔は現実世界にいきなり戻されるのだ。

 まさしく読書あるある! なのだ。読書好きなら、皆似たような体験をお持ちだろう。さらに劇中劇であるKGBがからんでくるハードボイルド小説がなかなかスリリングな展開で、「え、ここでお預け? この続き、どうなっちゃうの? 早く読ませてよ」殺生なのである。

 この、途中でぶった切るという感覚は、雀の絵はがきにも使われていて、一枚目が「今朝は時計草の実をた」・・・いや「た」って何? そうしてこの続きが二枚目に「べました」とあるのだ。

 稔の元妻である渚は、読書に夢中になるあまり、妻と会話をしようとしない稔との生活に嫌気がさして離婚したらしい。再婚した新しい夫は、稔とは正反対で、食事中、絶えずテレビのバラエティ番組を見ては、出演者たちが語るどうでもいい内容についての感想を妻の渚と共有したがる。渚は、こういうなんでもない日常が幸せなのだと思い込もうとする。失って初めて大切さに気がつくタイプのものだろうと。

 こういう人物を設定することで、本作は読書好きの幸せをさりげなく描くのだ。

 ついでに言うと、登場人物の多くが妙な恋愛をしている。由麻という女性は妻子持ちの男性と大恋愛ののち、彼の子どもを出産する。ところが赤ん坊との生活を送る内に、「結局のところ、彼は由麻に雷留を与えてくれたのだから、もう役目は終えているのだ」大恋愛がすっかり冷めてしまうのだ。

 劇中劇でもラウラはこう語る。「たぶん恋は全部過ちなんだわ」

 稔の親友の大竹にいたっては、妻へのストーカー行為が高じて・・・(笑)。生物の本来持っている、生殖活動に対する本能にあらがうことのできない人々が、たくさん登場する小説なのである。

 ラストの終わり方もなかなかよい。やっぱり読みかけの本は、きりのいいところまで読みたいよね。

 さて本書、登場人物がやたらと多いのに、その一覧表がない。というわけで作ってみた。これから本書を読もうというかたのお役にたてば幸いである。

劇中劇その一の登場人物

ラース=58歳 主人公

ゾーヤ=30歳前後のジャズシンガー、ラースの愛人

モーナ=ゾーヤの妹

エリック=ピアニスト、ゾーヤとトリオを組んでいた。

ソニア=エリックの妻

イサーク=エリックの旧友

オラフ=KGB、エリックからある証拠の品を回収するのが任務

マリーエ=KGB、オラフの仲間

劇中劇その二の登場人物

ナタリア=主人公、カリブ海の島に住む若い娘

ラウラ=ナタリアの幼なじみ

ジョニー=ラウラの恋人

ベンジャミン=ラウラの仕事先の上司で、ラウラの浮気相手でもある

プリニオ=ナタリアの兄。トニオというマフィアの子分

スコット=アメリカのギャング

本編の登場人物

稔=主人公、読書好き

雀=稔の姉、カメラマン

渚=稔の元妻、再婚して藤田姓に。

波十(はと)=稔と渚の間にできた娘、八歳、稔と同じく読書好き

藤田=渚の再婚相手、テレビが好き

淳子=稔の同級生、女性誌編集長、(ジュンジュン)

光輝=淳子のできのいい息子、大学生

大竹道郎=稔の親友、同級生、税理士

彩美=大竹の二度目の若い妻、(ヤミ)

加奈子=大竹の同級生

さやか=高校教師、56歳、チカと同居(レズ)

チカ=小料理店経営、52歳

真美=チカの店のアルバイト、学生

木村茜=稔が社長をしているソフトクリーム店の店員

由麻=茜の友人、藤枝という妻子ある男性の子(雷留)を出産

藤枝=妻子があるのに、由麻と浮気

雷留(らいる)=由麻と藤枝の子。名前は将来外国に行っても通りがよさそうだからという理由でつけられた

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2017/08/19

歌野晶午「Dの殺人事件、まことに恐ろしきは」感想

 江戸川乱歩の小説をリライトした短編集。

 やはり有名なのは「人間椅子」だろう。椅子の中に隠れるという、その発想自体が笑えるので、今までにあちこちで笑いのネタにされてきた作品。

 本作では「椅子? 人間!」というタイトルでリライトされている。

 女流作家と、その元カレの会話のやりとりでドラマは進む。当初は元カレがストーカーとして描かれる。そしてその元カレが、どうやら椅子の中に隠れているらしいことに女流作家が気付く。

 普通なら、女流作家がいかにしてこの気持ち悪いストーカー男を撃退するか! というドラマになりそうなものだが、そこはさすが歌野晶午。本作は思わぬ展開を見せる。途中から、本当に悪いのはストーカー男なのか、それとも女流作家なのか、判別がつかなくなってくるのだ。さらに読み進めると、女流作家のほうが悪人のような気がしてきて、ふと気がつくと、ストーカー男のほうを応援していたりする。もっとこの女に復讐してやればいい。もっと恐ろしい目にあわせてやればいい、とさえ思い始めるのだ。

 ストーカー男のメールの文末に(提案)とか、(遠い目)とか、(助言)とかあるのが、実に楽しい。最後の方で(予言)が出てきた時には「ジョジョの奇妙な冒険か?」と思わず突っ込んでしまった(笑)。

 ラストの、恐怖のどんでん返しの鮮やかさもお見事な、ピカレスクロマンなのである。

 「押し絵と旅する男」をリライトした「スマホと旅する男」も素晴らしい。アイドルに夢中になったストーカー男が(またストーカーだよ・・・笑)、彼女のデータを読み込ませたAIチャットプログラムをスマホにインストールして、いっしょにあちこち旅をするというストーリー。本作もラストのどんでん返しが実に鮮やか。そしてもの哀しい。

 いつまでも蒸し暑い、今年の夏の夜に、ぴったりな一冊である。

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2017/08/11

鈴木紀之「すごい進化」 ~一見すると不合理の謎を解く~ 感想

 進化論については中学~高校の授業で学びますし、過去にも進化についてはさまざまな本が出版されてきました。キリンの首がなぜ長くなったのか? とか、クジャクの雄の羽は(外敵に襲われる可能性が高まるのに)なぜあんなに派手なのか? とかについては、おそらくかなりの人がその理由を既に知っていると思います。

 というわけで本書、何が今までの本と違うのか。

 大きく二つあると思います。まずは筆者命名「いやいや進化論」!

 クリサキテントウムシは、まわりに栄養価の高いエサがあるのに、なぜあえて栄養価の低いエサを食べるのか? この不合理な行動を説明するために筆者が注目したのが「異種への誤った求愛」つまり、ナミテントウとクリサキテントウが同じ場所で生息し、異種交配があった時に、どちらがより多く子孫を残せるかに注目したのです。この部分の説明に、筆者は20ページ以上を費やしますが、ここがすごくおもしろい。

 例えば「オスのみさかいのなさ」という章があるのです。「自然界のオスには勝ち組と負け組がシビアにあらわれる」つまり、モテるオスはたくさんのメスと交尾できるが、「一度も交尾せずに生涯を終えるオスもいる」という事実が、人間のオスにもあてはまるようで,実に涙を誘います(笑)。さらに「こうした状況を前にして動物のオスはどのような行動をとるべきでしょうか。それは『ほんの少しのチャンスも逃さない』という意思決定です。」つまり、みさかいなくメスにアタックするというわけです。これを人間のオスにあてはめると・・・想像しただけで恐ろしいのでやめました(笑)。

 さらに読み進めると「ネアンデルタールとの交雑」という章があって、過去に我々の祖先であるホモ・サピエンスは、別種のネアンデルタールと交雑していたことが、DNA解析からわかったとあります。まさに人類のオスは「みさかいがない」ことを証明・・・。ああ、オスって、なんて哀しい生きものなんだ・・・。

 さてそこから筆者は、テントウムシにも同じようなことが起こった場合にどうなるかを知るために、カゴの中にオスとメスを入れて実験し、データをとったのです。その結果、クリサキテントウのメスは、まわりにたくさんナミテントウのオスがいると、同種のクリサキテントウのオスを見つけることができなくなり、ナミテントウのオスとばかり交尾して、結果的に子孫が残せなくなるのです。ナミテントウのメスはちゃんと、たくさんいるクリサキテントウのオスを避けて、同種のナミテントウのオスと交尾するのに。

 これを人間にはてはめると、白人の女性はまわりにたくさん黄色人種の男性がいても見向きもせずに白人の男性と交尾するんだけど、黄色人種の女性はまわりにたくさんの白人イケメン男子がいたら、そちらとばかり交尾し、同種の黄色人種男性とは交尾しないということ?・・・いや恐ろしい想像なので、これ以上は考えないようにします(笑)。

 こうしてクリサキテントウは、ナミテントウがたくさん生息している場所では子孫が増やせないということがわかりました。その結果、ナミテントウが食べないような、栄養価の低いエサを食べて生き延びることになったわけです。本当はクリサキテントウもナミテントウといっしょに栄養価の高いおいしいエサを食べたいのですが、同じ場所では子孫が残せないので、「いやいや」まずいエサを食べる方向に進化せざるを得なかった・・・これが「いやいや進化論」! なんて哀しい(笑)。「なりたい自分になるんだ」という、自分にとって都合のよい方向にばかり進化するわけではなくて、なりたくない自分にいやいや進化することもあるんだという衝撃の事実(笑)!

 もう一つ、本書の主張の新しさがあります。それは「役立たずなオス  性が存在する理由」という章です。

 有性生殖は、環境の変化や病気に対応するために有利、とか寄生生物に対抗するために有利、というのが従来の説でした。しかし、いずれの説も、自分のコピーをつくる無性生殖で子孫を残すほうが、効率の面で優れており、有性生殖の有利な理由を説明し切れていないというのが進化生物学者の共通認識なのだそうです。

 そこで筆者が注目したのが、無性生殖と有性生殖の両方を行う種です。ユウレイヒレアシナナフシという、擬態が上手で、もしオスと出会わなければ単性生殖でメスばかりを産むナナフシを観察したのです。すると、ナナフシのメスは、オスに発見されないようひたすら擬態をしているのですが、一度発見されたら、オスをキックし、オスが嫌うにおいを出すなど、徹底的に交尾を拒絶するのです。オスは対抗手段として交尾器の先端にカギのようなものがあり、なんとかしてメスの交尾器にそれを引っかけようとします。メスは交尾を拒否して単性生殖をしたい。オスは交尾して有性生殖したい・・・というわけです。つまりメスは「いやいやながら」交尾に応じ、有性生殖をしていることに。本来ならメスは無性生殖をしたいのだけれど、オスの存在により、「いやいやながら」有性生殖をしているという例を観察したわけです。そしてこれが、有性生殖を行う種がこれだけ繁栄した理由の一つではないかというのです。

 今年の夏も、たくさんのクマゼミのオスが、メスを求めて木のまわりを何周もぐるぐる飛び回っては、メスに抱きつく姿を見ました。ああ、あの行動は、本当はメスは嫌がっているのかもしれないなあ・・・。

 これを人間にあてはめると・・・いやいやすぐに人間にあてはめて考えるのは悪い癖ですね。やめましょう(涙)。

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2017/07/29

前野ウルド浩太郎「孤独なバッタが群れるとき」感想

 ファミコン全盛期のころ、コーエーの「信長の野望」というゲームにはまった覚えがあります。当然その流れで同じくコーエーの「三国志」にものめりこみました。「信長」と違い「三国志」は、プレイヤーにはどうしようもない恐怖のイベント「ああ、いなごだ・・・」がありました。せっかく内政に励んで穀物の収穫量を上げ、人口を増やしても、このイベントが発生するとばたばたと領民が餓死していくという、世の中の不条理を実感させてくれる素晴らしいゲームでした(笑)。

 そんな私ですから、当然本書のタイトルには無条件で食いついてしまうわけです(笑)。しかも本の帯には「その者、群れると黒い悪魔と化し、破滅をもたらす」とあるのです。ナウシカのパロディみたい(その者、青き衣をまとい金色の野に降り立つべし)。

 本書で取り上げるサバクトビバッタですが、

「見た目は馴染みのあるトノサマバッタに似ている。成虫は約二グラムほどで自分と同じ体重に近い量の新鮮な草を食べるので、一トンのバッタは、一日に二千五百人分の食糧と同じだけ消費する計算になる。しばしば大発生して、大移動しながら次々と農作物に壊滅的な被害を及ぼす害虫として世界的に知られている」

とか、

「巨大な一つの群れは五百キロメートル途切れることなく空を覆う」

とか、

「語源はラテン語の『焼け野原』からきている」

とか、

「植物を食い尽くすと、バッタたちはまた新しいエサ場を求め進撃を繰り返していく。彼らが過ぎ去った後には緑という緑は残らない。残るのは人々の深い悲しみだけだ」

「普段目にする緑色のバッタこそが、悪魔の正体で、複数のバッタの幼虫を一つの容器に押し込めて飼育すると、あの黒い悪魔に豹変するというのだ」

などなど、刺激的な記述がこれでもかと続くのです。

 筆者は、群れると危険になるというバッタを、徹底的に飼育観察。様々な条件で比較をした結果が、データとともに述べられています。どれくらいバッタ密度が濃くなると、平和を好む緑バッタが、危険な黒バッタを産むようになるのか。どんな刺激がきっかけで、凶暴な黒バッタを産むようになるのか。

 特に衝撃的なのが、卵黄の量の多い少ないが、緑バッタになるか黒バッタになるかを決めるという部分。筆者は自分の仮説を証明するために、バッタの卵から卵黄を抜き取るという、なんとも大胆な方法をとるのです。しかも「卵に針で穴を開け、中の卵黄を絞り出す」という、まんま手作業の、実にアナログな手法によって。こんなんでうまいこといくんかい! ・・・うまいこといくんです。なんでもやってみるものなんだなあ・・・。

 低密度で育ったバッタは、小型の卵をたくさん産み、子孫をより多く残す戦略をとったほうが生存競争に有利だけれど、高密度で育ったバッタは、大型の卵を少数産むことで、劣悪な環境下でもたくましく生き延びる子孫を残したほうが有利なのだろうというのが、筆者たちの仮説です。

 人間も増えすぎると、好戦的な性格の子孫が増えて、過酷な環境下でも生き延びようとするのかなあ・・・。

 考え出すととんでもなくシリアスになるのですが、本書は随所に脱力系のどうでもいい小話が散りばめられており、緩い笑いとともに読み進めることができます。いいバランスです。

 例えば、博士号を所得していい気になった筆者が、バッタではなく夜のアゲハ(比喩)に夢中になり、研究を台無しにしかけて、正気に戻る話とか(笑)。

 筆者のミドルネームに「ウルド」が入る理由とか(笑)。

  「僕の研究で世界を救う」みたいな、誰かに役に立ちたくて研究やってます的なところがみじんもないところも好印象。好きだからやってるという一貫したスタンスなんですね。

 いやあ、理系男子の書く本って、邪念がなくて楽しいなあ。

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2017/07/16

柚木麻子「BUTTER」感想

 直木賞候補作。

 モデルとなった木嶋佳苗は、「婚活連続殺人事件」の犯人として、5月に最高裁で死刑判決が出たばかり。

 本作では梶井真奈子(略してカジマナ)として登場する。

 前半は、獄中のカジマナから独占インタビューの許可をもらうために、彼女の言われるがままに、BUTTERを中心とした脂肪分たっぷりの食事を摂りまくり、どんどん太ってしまう女性記者の話がメイン。はたしてカジマナとつきあって次々に亡くなった男性3人は、自殺なのか? それともカジマナの手による他殺なのか? 

 ところが中盤から小説は、上記の謎解きなんかじゃなくて、女性が社会から求められている母親的立場というものの不条理さや不安定さをテーマとして描き始める。同時に、生活力がなく、自分で炊事洗濯家事一般がまったくできない、いや、やろうと思えばできるだけの能力があるのに、まったくしようとせず、女性に頼り切ってしまう男性たちへの批判も描かれる。なんだか俄然社会派小説っぽくなってくるのだ。

 ところがところが、終盤では、主人公たちは、心に抱えている闇の部分をカジマナによって曝け出され、糾弾され、精神崩壊直前まで追い込まれる。「あの人がああなったのは、自分があんなことをしたから。自分のせいであの人はああなってしまった。」その罪の意識を、カジマナは巧みに活用し、獄中から主人公たちをとことんまで追い詰める。「羊たちの沈黙カジマナバージョン」っぽい。

 前半はBUTTERの重さにくらくらしたが、後半は別の意味で、ものすごくヘビーな小説なのである。

 彼女たちがどうやってそこから立ち直っていくか。小説のタイトルが、そのヒントをきちんと示している。

 というわけで、本書はテーマが二転三転するので、一気読みすると印象が散漫に感じられる恐れがある。三分割して読むと、ちょうどよいかもしれない。一冊で三度おいしいと思えるかも。

 絵本「ちびくろサンボ」の、虎がバターになってしまった話は一体何の比喩なのか、その解釈がいくつかか出てくるのだが、前半のはなかなか面白かった。ただ、後半の、虎の骨についての解釈はちょっと無理があるかなと。

 あと、本書は多彩な比喩表現によって、BUTTERをたっぷり使った料理のおいしさを、読者にこれでもかと想像させてくる。 ストイックに節制することの愚かさを、かなりな説得力で描いた実におそろしい小説なのである。

 いやこれ読んだら、食べたくなるだろBUTTER!

 最後に、どうでもよい突っ込み。 

 作中で阿賀野にある三美神についての描写がある。「三人の働きものの乙女の銅像」だそうだ。カジマナが「複数の女が、それも美しい女が仕事をしながら仲良くできるわけがないし、三人いたら、絶対に一人は仲間外れになるに決まっているでしょう。乙女像がいずれもスレンダーであることも、許せませんでした」と語るシーン。11年前だったらこの部分、私は同意していただろう。しかし今は違う。美しくて仲の良い、しかもすごくよく働く三人の女性グループが、日本の音楽界に存在することを知っているからだ(彼女たちの存在そのものが奇跡だという意見もあるが)。

 

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2017/06/24

辻村深月「かがみの孤城」感想

 不登校の中学生男女七人が登場。七人いるので、ネグレクト、協調性のない性格、家庭内暴力、母親の情緒不安定、虚言癖など、不登校のきっかけとなる主なパターンは一通り網羅されている。

 特に主人公の受けたいじめは、いかにも「あるある」なパターン。誰が誰のことを好きかとか、誰のせいで誰の恋愛がうまくいかないだとか、この子が失恋したのはこいつのせいだとか、この男の子は、アタシのことが好きなのよあんたのことなんかちっとも好きじゃないのよ引っ込んでなさいとか、恋愛に関するあることないこと情報をまき散らし、私の味方になれば損はさせないけど、そうでなければ酷い目にあうわよ! わかってんのあんた!とか、まるで関ヶ原の合戦の前に、家康が書きまくった手紙攻撃みたいなことをクラスじゅうに実行する女子生徒。実際にこの手の人物は、どこの中学校のクラスでも最低一人以上はいるだろうと思われる。そうして女子中学生の間では、表に出ない形でこういう形の仲間外しが、毎日行われているのではなかろうか? 作中に「どこへ行ってもああいう嫌な奴はいる」みたいなことが書いてあるが、まさしくそうだと感じる。

 本作では、主人公たちは、かがみの孤城という、現実にはありえない架空の世界で、お互いの欠点に触れないよう気遣いながら、ゆるくて楽な人間関係を築いていく。そうして少しずつ心の傷を癒やしていくのだ。

 「かがみの孤城」は、ネットゲームの世界では友人が多く、とってもいい人!の演技をしている奴が、実社会では引き籠もりで、家から一歩も出られない・・・という、ありがちなパターンをメタファーとして表現しているように感じられる。

 本作では、七人が徐々にお互いの痛み、苦しさに気付き、相手の立場に立って考える客観性を身につけていく。自分だけでは思いつきもしなかった別のベクトルからの物の見方を身につけていくのだ。そして、お互いを助け合うことはできないのだろうかと、模索していく。このように、引き籠もりの主人公が、精神的にたくましく成長するストーリーは王道と言える。

 というわけで、本作は王道の主人公成長物語(ビルドゥングスロマン)なのだが、実は第一級のミステリー小説という側面も併せ持つ。このあたりが、「十二国記」などの過去の名作との大きな違いであり、本書の特徴でもある。

 特にヒントについてだが、最初からあそこにもここにも示されている。にも関わらず、最終場面まで私はそれに気付かなかった。そういうわけで、ラストの種明かしには正直驚いた。

 ラスト前で、七人がなぜ不登校になったか、その事情が克明に描かれる。このあたりはヒントだけ示し、あとは読者に想像させる手もあるのだが、本作ではリアルな描写があって、はじめてその後の種明かしに説得力が生まれるようになっている。

 一冊で二度おいしい。おすすめである。

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2017/06/18

ケン・リュウ「母の記憶に」感想

 2年前、「紙の動物園」で、日本のSFファンの心を鷲づかみにしたケン・リュウ氏のSF短編集第2弾。

 16編の短編が収められています。印象に残ったものの感想をいくつか。

 まず表題作の「母の記憶に」

 短編集ですが、この話が一番短い。「光速に近づくと時間の流れが遅くなる」という、SF好きまら誰もが知っている特殊相対性理論を、親子の絆というテーマでケン・リュウが扱うとどうなるか。読後の印象も鮮やかな作品です。

 「草を結びて環を銜(クワ)えん」と、「訴訟師と猿の王」の二編は、いずれも「揚州大虐殺」という、中国の歴史から一時封印されていた大事件に、真っ向からあらがって散っていった市井の人を主人公にしたもの。後者はタイトルからもわかるとおり、例の有名なスーパーモンキーが登場するのですが、この猿が超能力を使って事態を打破するような筋立てではないところが、キモとなっています。彼は徹底して主人公の傍観者として描かれるのですが、最後にこの猿が何をしたか・・・このあたりが実にケン・リュウらしいのですね。 決して歴史の表に残ることのない無名の人たちへの優しい眼差しが、しみじみとした読後感につながります。

 個人的にツボだったのは「重荷は常に汝とともに」

 ピラミッドに残された古代文字を読み解くのと同じように、惑星ルーラでかつて文明を築いた異星人の文字を解読する若き考古学者・・・ではなくてその彼女が主人公(笑)。ちなみに彼女の職業は、会計士。彼女が読み解いたルーラの散文詩、その本当の意味は・・・これが実に笑えます。しかも、こういうパターンって本当にありそうなところがすごい。あなたも是非、「重荷」が何のことなのか、推理してみてください。(ヒントはもうここに出してありますよ(笑))。

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2017/06/11

鳴海 風「円周率の謎を追う~江戸の天才数学者・関孝和の挑戦」感想

 平成29年度読書感想文中学生の部第3弾。
 そこそこネタバレあります。

 実在の有名人物をもとにした小説です。ヨーロッパの数学者よりもずっと早くに、円周率に関する理論を発見しまくっていたという天才数学者・関孝和が主人公。彼の、幼少期から青年期にかけての資料はほとんど残っておらず、従って、どんな少年時代を過ごし、どんな性格で、どんな女性とおつきあいしていたかは、誰にもわかりません。というわけで、このあたり完全に作者が創作して書き上げたのが本書。

 まず関孝和少年期のキャラ設定。
 外見は背が低くて剣道も弱く、武士なのに体育会系ではない描き方。ならば勉強ができるのかと思いきや、引っ込み思案で口下手。論語も十分に理解できていない・・・というように、中学生の読者が読んだら親近感を抱くように描いてあります。ただし、何事も慎重に考えてから返答するというあたりから、なるほど、じっくり考えて考えて考え抜く性格で、だから最終的にはすごい業績をあげるのかと、読者はうなずくような仕掛けになっております。

 彼が通う数学塾の先生には香奈という娘があり、主人公よりちょっと年上(孝和15歳、香奈18歳)の、美人で積極的な女性として描かれます。肺の病にかかり、婚期を逃したという設定。当然主人公は積極的な香奈さんに引っ張られる形で、算学(江戸時代、数学の難問を絵馬に書いてお寺に奉納するのが流行っていた)に次々挑戦していくわけです。
 で、このあたりから既視感に襲われます・・・。いやこれ、江戸時代の天文学者を描いた「天地明察」と同じパターンだろ! もうちょっとヒネりが欲しいような・・・。まあでも、「天地明察」の重要な登場人物の一人が関孝和ですから、これは仕方ないところでしょうか。

 さて本書、全部で200ページ弱の短い小説なのですが、140ページを越えた辺りから、急に史実に忠実な書きっぷりになってきます。関孝和が壮年にさしかかる辺りからは、資料が結構残っていて、作者が勝手に書くわけにはいかないのでしょうね。結果、だんだんと小説ではなく、偉人伝っぽくなってきます。その淡々とした進行にはびっくりです。前半の頼りないキャラが、後半はやたらと分別のある人物に変わり、お家のために上司に言われるまま縁談をすすめ、所帯を持つのです。香奈さんも、後半は出番が少なくなったと思ったら、いつのまにか他の男の嫁になっていたり。前半あれだけ主人公とラブラブだったのは、一体何だったの(笑)。

 円周率の求め方についての説明はよくできていて、中学生にもすとんと理解できるでしょう。できれば本物の「大成算経」のコピーと、その読み方、それを現代の数学の数式に置き換えたものなんかを、資料として添えてくれたらなおよかったのに。でもそこまでやっちゃうと、完全にノンフィクションになっちゃいますか。

 「西洋の数学者は新しい理論を発見したら自分の名をつけて業績をアピールする。関を代表とする江戸時代の数学者はそんなこと考えもしなかった。彼らはただ数学が好きなだけであった」という西洋の数学者との比較で本書はしめくくられます。論語の「これを知るものは、これを好む者におよばない」と、ちょっと似てますか?
 まあでも、偉大な発見をしたら、やっぱりきちんと功績として残し、有名になり、皆から褒め称えられたいと思うのも、人間の自然な感情だと思うので、感想文を書くなら、このあたりをどう書くかでしょう。
 

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2017/06/04

キャシー・アッペルト&アリスン・マギー「ホイッパーウィル川の伝説」感想

 平成29年度読書感想文コンクール課題図書シリーズ第2弾! 海外文学です。

 著者名が二人ありますが、これは一人が人間視点の部分、もう一人がキツネ視点の部分、というように、完全分業制で書いているからです。そういうわけで、主人公は二人・・・いや一人と一匹います。さてその成否は・・・これについては後ほど。

 人間のほうの主人公は11歳の女の子ジュールズ。姉を事故で亡くし、その喪失感から立ち直れずにいます。ある日キツネに、生前の姉が通っていた秘密の場所へ導かれます。そこで、姉の本当の思いを知り、生きる力を取り戻すというストーリー。

 同時進行でキツネのストーリーも語られます。ある使命を帯びた若いメスのキツネが、その使命のために殉死します。残された兄キツネが、妹キツネを悼む、というストーリー。

 二つのストーリーに共通するのは、生き残った者が死んでいった者を悼み、その喪失感から立ち直るという点。

 あらすじだけ書くと、なんだか感動的な、素晴らしい話のような気がするかもしれません。が、しかし・・・

 まず主人公ジュールズのキャラ設定、自分のことで手一杯で、感情をうまくコントロールできない少女に、果たして、思慮深い読書好きの中学生が、感情移入できるでしょうか? できれば年齢設定を14歳くらいにして、もう少し客観的に自分を見るキャラにしてほしかったですね。読んでいてかなりイラッとします。

 次に、ジュールズの友人の兄、エルク。親友ジークがアフガニスタンで戦死し、その喪失感に苦しんでいるのですが、ある時森の奥で、ジークの死を悼むため、猟銃を21発も発砲!! ああ、アメリカってつくづく銃社会で、徴兵制のある国なんだなあと思いました。日本人の感覚では、野生動物の住む森の奥で21発も発砲なんてありえません。森の動物や精霊(本書では、森の精霊が存在するという設定)たちにケンカ売ってんのか? と思ってしまいます。この後、エルクは、森を騒がせた罰として、クマに食い殺されるんじゃないかと、ヒヤヒヤしながら読みました(そうはなりませんけど)。

 自然界と共生・共存するのではなく、自然は人間の力で征服するもの、という文化で育っているからなんでしょうね。なにしろ、アメリカは開拓民の国ですから。

 次にピューマ。どうしたピューマ。出番はそれで終わりか? エルクとのその後の関わりがほとんど描かれてないような気がします。エルクの心を救う役どころじゃあなかったの? これでは登場した意味がありません。

 次はクマ。臭いとか、バカとか、一方的に悪者として描かれています。なぜキツネとピューマは善き者で、クマは悪しき者なのか? 両者を分ける基準がわかりません。クマだって森の一員だぞ。作者の都合で勝手に差別するな!

 次に、キツネが言葉を喋る点。「他の何者かを助けるためにこの世に生まれてくる聖なる動物」である自分のことを「ケネン」という名詞で語るのです。人間がこういった生まれ変わりの概念に(事故死した姉がキツネに、戦死したジークがピューマに生まれ変わったと考えられるのですね)名前をつけるのはわかります、でもキツネが会話の中で使うか? ものすごい違和感です。聖なる動物なんだから、下手に擬人化せず、行動や背景描写で表現してほしかった。このあたりの描写のうまさについては、日本には優秀なファンタジー作家さんがたくさんいらっしゃるので、普段からそちらを読み込んでいる日本の中学生読者家さんにとっては、本作はおおいに不満を感じるものとなるでしょう。

 総じて、作者は二人とも、お互いのパートの欠点について、言いあえていないのではないかと想像されます。普通なら優秀な編集者が客観的な感想を作者に伝え、それをもとにして、作者は作品に手を加えるのでしょうが、本作はどうもそのあたりがあまりうまくいっていないような。

 二人でパートを分けて合作というのは、やはり難しいもののようです。

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