2017/11/18

森絵都「出会いなおし」感想

 随分印象が変わったな。あれ、こんな作家さんだったっけ?

 短編六つ。

 一作目の「出会いなおし」は、まるで森絵都本人の回顧録のよう。

 27歳(推定)の時の「宇宙のみなし子」は、当時の中学校読書感想文課題図書だったように思うが、とにかく瑞々しさがページから溢れていた。屋根の上に登って星を見たくなった。

 31歳(推定)の時の「カラフル」は、歴史に名を残す傑作だった。SNSに「死にたい」と書き込む人は、これ読んでないんじゃないの? スマホいじる暇あったら、本読めよ。

 そして34歳(推定)の時の「DIVE!!」は、スポーツ青春小説の王道だった。マネして同じパターンの小説やマンガが、後から後から、まさしく「雨後の竹の子のように」現れたものだ(駅伝とか、野球とか・・・とか・・・とか)。

 ところが、ここから森絵都の筆は急に衰える。37歳(推定)の時の「風に舞い上がるビニールシート」は、一体どうしちゃったんだろうという作品である。中途半端におばさん臭いのだ(直木賞はとったんだけどさ・・・)。

 「出会いなおし」を読むと、なるほどあの頃はそういう心境だったのね、と得心する。

 そして今、充電されて、吹っ切れて、さらに中年おばさんパワーを手に入れ、過去の森絵都とは違う森絵都に生まれ変わったわけだ。

 特にその威力が遺憾なく発揮されているのが二作目の「カブとセロリの塩昆布サラダ」である。途中カブ料理のレパートリーが延々と述べられるのだが(なんと1ページ半も!)、よくまあ編集者も妥協したものだ(笑)。おばちゃんだからこその押しの強さを感じた。しかもたかが「カブとセロリの塩昆布サラダ」の話で、ここまでドラマチックに展開しますか! 泣かせますか! 笑わせますか! とにかく吹っ切れ方がすごい。新生、森絵都である。いやびっくり。

 人生の重要な岐路で、実在しない人物がアドバイスを示してくれるパターンの話が二つある。こういうちょっとファンタジーっぽい書き方は、「カラフル」を思いださせる。また、随所に散りばめられた比喩表現は、しばしば私の胸に、真ん中どストライクで衝撃を与えてくれる。こういったところも昔の森絵都のまま。

 そういうわけで、昔のファンも、最近ファンになった人も、どちらも楽しめる一冊。

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2017/11/12

千早茜「ガーデン」感想

 この小説の主人公羽野、一般的には「草食系男子で帰国子女」というレッテルを貼られるのだろう。しかし羽野は、強烈にそのレッテルを拒絶する。そういう典型的なパターンの小説ではないのだよと。

 偽善が嫌い。人間づきあいが嫌い。人間とよりも植物と暮らすほうがよっぽどマシだというキャラ設定。人間や生物のにおいに過敏に反応するあたり、アスペルガー症候群の一種かと思わせる描写もある。

 少年時代の羽野が、海外で老婆にジュースを渡し損ねる体験が強烈。その記憶が「人に感謝されたいという欲求がない」特異な性格を形成する。

 自分を周囲に押しつけないので、おかげで女の子たちにはやたらと人気が高い。同僚のタナハシにモテ、モデルのマリにモテ、バーテンダーの緋奈にモテ、人妻の矢口さんにモテ、バイトのミカミさんにモテ、先生の愛人理沙子さんにモテる(こういう設定に虫酸が走る人は、本書は手に取らないほうがよかろう)。

 羽野の周辺の女性たちは、皆、羽野に近づき、羽野に話を聞いてもらいたがる。「私を見て」「私に気づいて」「私をかまって」光線を出しまくる。だが、結局女の子たちは、皆羽野から離れていく。羽野が、彼女たちの願望を知りながら、何一つかなえてあげないからだ。

「自分の好きなものをわかってもらいたいと思ったこともない」「それって、さみしくないですか」「さびしくない」

 最近教育現場では、「自尊感情の育成」がキーワードとなっている研修が多い。自分で自分に価値があると感じる人間は、他人の評価を必要としない。自分に価値を感じない人間は、他者の評価を気にする。他者にほめてほしい。「きれいだね」「がんばってるね」「すごいね」と言われたい。「一緒にいてほしい」と言われたい。SNSがこんなにも大流行している背景には、自尊感情を持てない人間がそれだけ多いという事情があるのだろう。そして、みんなこじらせる。

 例えば、本作に出てくる女性タナハシは、出社拒否症に陥り、バイトのミカミちゃんは、「自分を殺すことを愛や喜びと思」うことで、若手男性社員との出来ちゃった婚に進む。そのほか、いきなり行方不明になる女の子が二名も出てくる始末・・・。

 女流作家らしく、女性の性格の恐ろしい部分を見事にえぐって描写する。だから、羽野は悩む。自分の対応が間違っていたのだろうかと。

 今後も注目したい作家である。

 追記

 序盤で雑誌の取材のため、京都に行くシーンがあるが、京都の魅力をよく捉えていると感じた。作者は京都に住んでいたことがあるのだろうか? また、コケとSNSの共通点についての考察もなかなかおもしろかった。

 

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2017/11/05

伊坂幸太郎「ホワイトラビット」感想

 伊坂氏の新刊

 いつもの伊坂氏の作品とはちょっと様子が違う。p182まではとにかく、一体誰が本作の主人公なのか、さっぱりわからないのだ。一人称が兎田だったり、春日部課長代理だったり、つまり多視点で語られるドラマというのもある。「レ・ミゼラブル」を模して、あちこちに突然作者の語りが差し挟まれたりするのも一因だろう。「ここで一度、時間を巻き戻し、~の場面に戻そう」みたいに、これは実はこの後こうなるんだが、ひとますそれはおいておいて、今はこっちの話をしておこう的な語りが多く、時系列がぽんぽん飛ぶ。おかげで小説というよりは、なんだかテレビドラマの脚本を読んでいるみたいに感じたりもする。

 それが、p182からは一気に主人公が誰なのかが明確化し、ドラマはぐんぐんと加速し、それまでの伏線をひょいひょいと拾い集めて繋ぎあわせ、怒濤のエンディングを迎える。このあたりの展開の爽快さは、まさに今までの伊坂氏そのもの。

 p182までは、なかなか思うようにドラマが進まないし、それぞれのドラマがどう繋がるのか見当もつかないしで、読んでいて不安になってくると思う。しかし、是非想像力を働かせて、このややこしいパズルが、どう繋がっていくのか、推理しながら読んでほしい(私は今回、残念ながら全然わかりませんでした)。

 さてここからはどうでもいい追記。

 本書、P15の「ごめんね祇園精舎、悪いね沙羅双樹」の次のところに、「兎田が『平家物語』を知っている可能性は低く」とありますが、いや、かなりの確率で知っていると思います。なぜなら平家物語冒頭部分は、中学2年の国語の教科書に載っており、さらに言えば、ほぼどこの中学校でも、暗記させられることになっているからです。

 p91の中村の台詞。「アリさんとな俺たちを一緒にしないでくれ」・・・校正漏れですね、第二版以降は果たしてなおっているかな新潮社。

 

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2017/10/29

ベルンハルト・シュリンク「階段を下りる女」感想

 ドイツの小説。2014年に出版され、あちらではベストセラーになったとのこと。

 「階段を下りる女」というタイトルの絵を巡って、ドラマは始まる。画家シュヴィントと、絵のモデルであるイレーネ。絵の所有者兼イレーネの夫グントラッハ。そして絵の所有権を画家シュヴィントに戻すことと引き替えに、モデルのイレーネとグントラッハを復縁させるという契約書を作成するために雇われた弁護士の「ぼく」の四人が、主な登場人物。

 若い時の「ぼく」は、イレーネを夫グントラッハから解放し、さらに彼女と駆け落ちすることを夢想し、彼女の脱出劇に荷担する。だが、自由になったイレーネは「ぼく」の思い通りには行動しない。彼女は行方不明のまま、40年の月日が経つ。ここまでが第一部。

 第二部では、イレーネの住居を「ぼく」が突きとめ、訪れるシーンから始まる。そして、どうやらイレーネが重い病気を患っているらしいことに「ぼく」は気づく。

 そこで「ぼく」は突然、介護問題について語り出す。次のように。

「誰もが仕事はしなければならないわけだが、仕事を辞める時点を自分で決められるのが、本来は正しいあり方だろう。その時点が来たら、社会は三年間、彼が自分にふさわしく、快適だと思う生活に必要な金を払い続けるべきだ。そのあと、彼は人生に別れを告げなければならないが、どのようにして死ぬかは自分で決められる。そんな政策は実行不可能だとわかってはいる。だが、それが実行できれば我々の高齢化社会の問題が解決されるだけではない。その政策はすべての人に自分の人生をコントロールする権利を与えるだろう」

 驚いた。今の民主主義の国家では絶対に不可能な政策だから。だが、かつての日本では、例えば鎌倉時代の西行法師のように、自分の死期をコントロールしても構わない時代があった。そもそも仏教は、釈迦が、自分の死期をコントロールする入滅を行っている。生きる権利と同じように、死ぬ権利が皆にあったのだ。

 やがて、イレーネの家に、かつての夫グントラッハと、画家シュヴィントがやってきて、絵の所有権について議論を交わす。

 第三部でイレーネは、自分の人生に別れを告げる前に、自分の人生をコントロールする。思い残すことがないように。そして彼女は、どのようにして死ぬかを、自分で決めるのだ。

 「ぼく」は、もし40年前に、イレーネが自分と駆け落ちしていたら、どんな人生を送ることになったか、その空想を、病床のイレーネに聞かせる。その語りの中で、「ぼく」は自分の人生を、かつて確かに作ったはずの「砂の城」を思いだす。そしてどうやらその作業が「ぼく」の心の癒やしになっているようなのだ。

 若い時に絵のモデルだったイレーネ。40年の月日がたったということは、第二部以降のイレーネは、おそらく60歳後半。「ぼく」のほうはおそらく70歳前後。画家シュヴィントと、元夫のグントラッハにいたっては、おそらく80歳前後の高齢者と考えられる。つまり本作は、じいさんとばあさんが、自分の人生の最期をどうコントロールするかを描いた作品というように読むことができる。

 じいさんばあさんの最期の話なのに、読後感は実に美しい。

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2017/10/22

小野寺優「ラノベ古事記」感想

 太宰治の文庫本「人間失格」の表紙を、ラノベタッチにしたら売れたらしい。

 馬鹿売れした「キミスイ」とかの表紙も、ラノベタッチだし。

 今はなんでもラノベ風にすりゃあ売れる時代! という安直な発想のヤツかと思って読み始めたが、本作、ちょっと様子が違う。

 各章のページを開くとその裏に、「CHARACTER CHART」なるものがあり、主な登場人物のイラストと解説がある。稗田阿礼(ひえだのあれ)についての説明がこうだ。

「一度見たり聞いたりしたものは忘れない」という特殊能力を持っていたため、28歳の時に天武天皇にスカウトされ、日本の歴史や系譜を暗唱。

 なるほど彼は今で言うところのサヴァン症候群だったのか。納得!!

 そして「序」の部分。今まで古事記の「序」の部分は、読んだことがなかったので、今回初めてその内容を知った(後で調べてみると、本作は一見おちゃらけたように見せて、かなり正確に口語訳してあることにびっくり)。おかげですごく勉強になった!!

 いよいよ本編を読み始める。とりあえず本作は、古事記の上巻の最後までを描いている。最近読んだ古事記では、こうの史代氏の「ぼおるぺん古事記」の印象が強く残っているので、どうしてもそれとの比較になってしまう。

 読み終えての結論。

 「ぼおるぺん古事記」は、作者こうの史代氏による、女性視点の解釈。男性の身勝手さを描いた作品だった。

 対して本作は、男性視点の作品。原作に見え隠れする「下ネタ」と「萌え」要素を、包み隠さず正直にあらいざらいに表現したらこうなっちゃいましたみたいな。

 大国主命の、手当たり次第に女に手を出すプレイボーイ部分の描写で特にそれを感じた。彼の別名が「八千矛神(やちほこのかみ)」である理由も、本作をよんで初めて納得(笑)。そうか、矛を使いまくってあちこちの女性を(以下自主規制)。

 ほとんどどこの図書館にも置いてある日本古典文学全集「古事記」と読み比べると、さらに本作の面白さが増す。そうかこのシーンはこういう解釈も出来るのか!

 なるほど、こういう読み方もありだなと。

 最後にまとめとして「跋」の章がある。そこで右大臣、藤原不比等が元明天皇にこう言うのだ。

「・・・古事記にはこちらに不都合な話が多すぎます」

「オオクニヌシの神話なんて、天皇の前にも別の王権があったことを認めているようなものじゃないですか。そんなん、わざわざこちらが正式に認めなくてもいいでしょう」

 今まで、みんな心の中で思っていても、口に出してこなかったことを、本作はずばり言っちゃってる! この潔さ。ラノベ風だからこそ、できたのではないか?

 面白かった!

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2017/10/14

天野純希「信長嫌い」感想

 信長が主役ではなく、信長のせいでいろいろと苦労したり、苦汁をなめさせられたりした方々が主役の小説である。

 全部で七話。

 第一話=今川義元(説明いりませんね)

 第二話=真柄直隆(朝倉義景配下の武将。 姉川の戦いで徳川家と戦い討死)

 第三話=六角承禎(信長上洛時に観音寺城に立てこもり抵抗するも敗北)

 第四話=三好義継(信長上洛までは大阪と京都を支配。将軍足利義輝を殺害)

 第五話=佐久間信栄(信長配下の武将。のちリストラされる)

 第六話=百地丹波(信長を暗殺しようとしてことごとく失敗した忍者)

 最終話=織田秀信(信長の孫。幼名三法師。関ヶ原の戦いで西側につき、敗北)

 ほとんどの作品に共通するのは、信長というとてつもなく大きな存在の前に、自分の存在意義が見つけられず苦悩する主人公の姿。そこそこがんばって出世したり、所領を広げたりしてきたのに、信長と比較すると、とたんに自分がちっぽけに見えてきてしまう。さらに、信長の悪運のあまりの強さに、信長は天から必要とされているが、自分はまったく必要とされていない存在なのではないかと自己嫌悪ループに陥るのだ。実に気の毒である。

 ただ、作者は、主人公たちが、最終的には自分の人生に満足して終わるようにストーリーを組み立てる。よい人生だったかどうかは、結果で決まるのではない。人生の岐路で、自分で自分が嫌いになるような選択をしてこなかったか。自分の性格に正直な選択をしてきたか。そのあたりが本作のテーマとなっているようだ。主人公の一人は「そうか。結局のところ、自分は誰かに褒めてもらいたいだけだったのか」と気付いた時に、吹っ切れる。

 そういうわけで、人生の敗北者たちのストーリーであるにも関わらず、読後感は実にすがすがしい。

 (追記) 最近、資料を多角的に読むことで戦国時代を見直す動きが盛んになっている。例えば長篠の戦いで鉄砲三段撃ちはなかったとか。本作では足利将軍義輝が、塚原卜伝免許皆伝の剣豪として、畳に突き立てた名刀を次々と取り替えながら寄せ手を鮮やかに切り捨てる姿が描かれる。これはどうやら江戸時代の創作であるらしいのだが、作者はそのあたりには深く突っ込まず、テーマを貫くため、エンタテイメントのため割り切って書いているようだ。

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2017/10/07

岩下悠子「水底は京の朝」感想

 作者は「相棒」「科捜研の女」等テレビドラマの脚本家。本作が小説家としてのデビュー作。

 京都が舞台の小説。だから随所に京都的な、怪しげな美や闇が描写される。また、嵐山や鴨川の三角州、赤光寺など、京都の名所を背景としてドラマが展開される。となると、いかにして森見登美彦氏の作品と差別化を図るかがポイントとなろう。

 作者は本作に、ファンタジー小説の手法ではなく、ミステリードラマの手法を導入することで、独自の色を出すことに成功したと言える。

 全部で五話ある。各話では、前半で一つの事件なりドラマなりが示される。そして後半、そのドラマを複数の登場人物が、それぞれ違う視点から解釈する。話によっては3通りの解釈が出てきたりして、はたしてどれが真相なのかわからなくなってくる。料理対決のマンガでは、後から出した料理が勝つ! というお約束があるようだが、本作ではそれは通用しない。多層的な読みができるのだ。だから、読んでいて実に楽しかった。

 ミステリードラマの手法によくある、「幻影痛」や「ネクロフィリア」など、ちょっと変わった病名やら、ちょっとダークな趣味嗜好やらが、小難しそうな専門用語を伴って次々に出てくる。そうやって前半でしかけておいた様々な伏線が、後半で鮮やかに回収される。これは相当計算して書いてある。さすが、テレビドラマの脚本家!見事なものである。

 ヒロインが、よくあるすっとした美人ではなく、背が低くてちょっとぽっちゃり系なのも、京都らしくて好印象!

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2017/10/06

カズオ・イシグロ「私を離さないで」とPerfumeの「Spending all my time」

 カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した。当ブログでも、以前「私を離さないで」(映画)を紹介したことがある。自分のお気に入りの作家さんがノーベル賞を受賞するのは、やはり嬉しいものである。

 さて、その「わたしを離さないで」だが、閉鎖された学園で健気に運命を受け入れる少女たちのイメージと、Perfumeの「Spending all my time」のPVのイメージがよく似ているという感想を、以前当ブログで書いた。その後、「Spending all my time」は、Perfumeの3人が、レコード会社を徳間からユニバーサルへ移籍する時の葛藤と決断を描いている、という解釈も書いた。

 来月、11月29日にはPerfumeのPV集第2弾が発売される。2012年当時のPerfumeのおかれた状況に思いを馳せながら、「Spending all my time」を鑑賞したい。

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2017/09/23

佐藤正午「月の満ち欠け」感想

 第157回直木賞受賞作です。

 ですが、今回の作品は私は生理的に受け付けられないものでした。

 過去の佐藤正午氏の作品は、結構好きなものが多く、特に「鳩の撃退法」なんかは大好きでした。こっちが直木賞だったらよかったのにと思うくらいです。

 では今回の作品のどこが苦手だったかというと・・・

 まず、ヒロインが魅力的ではないところ。無断欠勤をわりと平気でする人です。仕事に行くのがいやだから、押しの強い男に言い寄られて、そのまま押し切られるように結婚してしまう、主体性のない女として描かれています。若い男に言い寄られても、そのまま押し切られる、だらしのない女です。

 こんな女では、何度生まれ変わってくれても、自分は好きになれる気がしません。

 次に、生まれ変わった女は、小学生とか中学生とかなわけです。男の方は60前後の、人生の終点が見えてきたおっさんなわけです。この二人が、男女の関係になったら「アウト」でしょう。作品中でも、少女の母親がその点を危惧しています。それなのに、なぜか作者は、ラストで二人の再会を美化して書いているのです。

 冷静に読んだら、変態親父の話だし、少女の年齢から考えて、法律上いろいろひっかかりまくりそうです。少なくともまともな大人が読む娯楽小説としては、いささか無責任ではないかと思います。人生終わりかけたおっさんの願望を美化して書いたのかと勘ぐりたくなります。

 まあでも、「源氏物語」だって、おっさんになった主人公が、美少女を見つけて、自分好みの女に教育していく話でしたよね。だったら、本作もありなんですかね? 

 あと、中盤で出てくる体育会系サラリーマンの思考回路と、それに対する妻の本音の描写あたりは、勉強になったと言えるかな。

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2017/09/10

エリザベス・ストラウト「私の名前はルーシー・バートン」感想

 筆者は2009年に「オリーヴ・キタリッジの生活」でピュリッツアー賞を受賞したニューヨーク在住の女性作家。

 本作は中盤で、主人公がセアラ・ペインという名の小説家のワークショップに参加する。そして書きためておいた小説の一部を見てもらい、次のような評をもらう。

「娘が入院したので、母親として見舞いに来て、なぜか堰を切ったように、ほかの人の結婚がだめになった話をする。自分でもわからないのね。そういう話をしようという意識はない」

 そういうわけで、本作の前半は、結婚に失敗した親戚やご近所さんたちの話が次々に登場する。

 まずはキャシー。わが子が通っていた学校の先生とくっついて、夫と子どもを捨て、町を出る。ところが頼りにしていた男が実はホモで、キャシーの人生の後半はじつにみじめで寂しいものとなる。

 次が母のいとこのハリエット。シガレットを買ってきてやると言って出ていったきり夫は帰って来ない。

 ハリエットの娘のドティは、何年か前に、旦那が他の女と消えてしまう。

 メアリの旦那が秘書と浮気をして十三年にもなるということが発覚。その女がものすごく太っていたことを知ったメアリは心臓発作を起こす・・・などなど。

 後半で筆者は次のように書く。

 「人間は優越感を欲しがるものだ。どうにかして自分の優位を感じていようとする。どこの人間も同じだ。いつでもそうなる。その習性にどんな名前をつけるにせよ、踏みつけにする誰かをさがさないと気がすまないらしい。人間の成り立ちとしては最下等の部分だと思う」

 主人公と母は、いつ退院できるかわからないという状況の中、「人間の成り立ちとしては最下等」である「他人の不幸」を話題にすることで、不安な気持ちをなんとか心の片隅に追いやろうとしている。

 終盤、主人公が離婚と再婚をするのだが、娘が母に、新しい夫のことをこう言うのだ。「いい人だと思うわよ。だけど、眠ったまま死んでいてくれていたら、なんてことも思う」主人公は、娘を深く傷つけてしまったことを知るのだ。入院中に他人事のように話していた人生の哀しみが、ラストで自分に降りかかってくるのである。

「いまでも思う。人生は進む。進まなくなるまで進む」

 ちなみに上記のような読み方は、たくさんある本書の読み方のうちの、一つにすぎない。読んでみるとわかるが、本書はもっと違う読み方もできる、複層的な厚みを持っている。

 セアラの、小説を書く姿勢についてのアドバイスが、なかなかにすごい。なるほど小説を書くというのはこういうことかと。まさしくプロ中のプロの小説家であるエリザベス・ストラウトが、劇中で架空の小説家となってアドバイスをしてくれているわけだから、実にありがたい話である。こんな風だ。

「貧困と虐待の二つを絡めてるところで、あれこれ言われるんじゃないかしら。」「でも言い返しちゃだめよ。自分の作品を弁護するなんてことはしない」「ただ、こういうものを書いていて、誰かしらを守ろうとするようになったら、それは書き手としておかしいんじゃないかってことは覚えといて」

 「必ず泣ける」とか、「最後の大どんでん返しにあなたは二度驚く」とか、売れる本ばっかり書いている日本の作家さんたちには、ぜひ本書を何度でも読み返してほしい。

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