西加奈子「サラバ」感想
主人公の名前が変わっている。圷歩(あくつ あゆむ)。姉の名前は貴子。この姉は、出産時に長時間、母の産道にとどまり続けたという描写がある。おそらくこの時、脳の一部に損傷があったのだろう。貴子のキャラクターは、あきらかにアスペルガー症候群であることを示している。
① 他者との距離の取り方がわからない。周囲の空気が読めず突っ走っては浮く。
② 芸術に関する才能がある。
母は母で、特異なキャラクターの持ち主だ。
① だれもが振り向く美人。
② 自分の欲求に非常に素直
③ 人から尽くされたりチヤホヤされたりするのを当然と思う人。人に写真を撮ってもらった後「じゃあ、今度は私が撮りましょう」と、絶対に言わないタイプ。
姉の貴子は「私を見て見て」
母は「私が、私が幸せになるねん」
主人公の歩は、二人の強烈な女たちに囲まれて暮らすうちに、ある気の毒な性格を身につけてしまう。それは、女たちが何かを言い出したら、そっと気配を消すこと。自分からこうしようとは、決して言わないこと。女の心の動きが読める男になっていく。
そしてこの性格は、彼の人生の前半において女子の気持ちがわかる優しい男子として有利に働き、もてもての青少年期をやがて送るようになる。
ところで、中学生の歩君に言い寄ってくる女子生徒に対する描写が、なかなか手厳しい。
「まったく女ってやつは」
歩の口を借りて、何度も作者は、女の心の中の黒い部分を描く。それまで地味なポジションにいた子が、ハンサムな歩君を彼氏にしたとたん、ブラウスのボタンを胸元まで開けるとか、そういう女の嫌な部分が見えてしまってしょうがない歩君は、だから少しでも「私が私が」とか「私を見て見て」とかいう空気を彼女が見せると、たとえその子が外見上どんなに魅力的であっても、その子に対する興味を失ってしまうのだ。
罪作りな母、姉なのである。
ところが、歩が中年期にさしかかり、かつてイケメンだった外見に翳りが見えてくる頃、歩はその性格ゆえ逆に、女たちに見下げられる。
「いつまでそうやって決定を先のばしにするの?」
「女系の総督」のように、提案するということをしてこなかったツケがまわってくるのだ。
様々な音楽を聴き、映画を観、小説を読む量は桁外れ。でも自分独自の文章が書けない歩。それは「ニッポンの音楽」で言うところの、「リスナー型ミュージシャン」に他ならない。つまり、代わりはいくらでもいるのだ。ところが歩は、自分の人生がこんな風になってしまったのは母と姉のせいだと、そう思うことで心の平衡を保とうとする。確かにそうではあるのだ。だが、本作は、そんな歩が、どうやって自分の人生を歩むきっかけをつかむか、どうやって「リスナー型=誰かの音楽を聴いたから」タイプから脱し「誰の音楽を聴いたからでもなく」タイプになったか、その成長の過程を力強く描いた小説だ。他人の言葉ではなく、自らの心の内からわき起こってくる言葉。それを綴ることが歩にとって「生きる」ことなのだと。
力作である。
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