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2013/06/23

デカプリオ版「グレート・ギャツビー」感想

 ギャツビーと言えばフィッツジェラルド。フィッツジェラルドと言えば村上春樹。ということで、村上春樹訳の「グレートギャツビー」を去年読んだのですが、(大貫三郎訳の方は大学時代に読んだので、ほとんど記憶に残っていません)デカプリオ版は、どうも原作とは違う雰囲気です。むしろレッドフォード版の方が原作のニュアンスがよく出ていたように思います。

 まず、女性ゴルファーのジョーダンが、なんだか影薄かったかな。もっと主人公ニックと親密な関係になるはずなんですが。デカプリオ版のジョーダンは、やたらと背が高すぎて、これじゃあ背の低いトビー・マグワイヤ演じるニックとは、明らかに不釣り合いだよなあ。うまくいきっこないよなあ、と見ていて早々にあきらめムードに・・・。
 ギャツビー家でのパーティーのシーン。レッドフォード版は、光と影のコントラストがあり、闇の部分でパーティー参加者が何を思っているのか、その不気味さが感じられたのですが、デカプリオ版では、ハイビジョン的に隅々までくっきりと描きすぎて、そういうおどろおどろしさが半減。
 デカプリオ版では、パーティーで初めて主人公がギャツビーに面会するシーン、デカプリオがニカッと笑うシーンで「この笑顔にやられた」的な字幕が流れるのですね。いや映像でそれ表現してるのに、なんでわざわざ字幕で? っていうかそのニカッは、わざとらしくてあまり好きじゃないんだけど(妻は「え~、よかったよ?」と言ってましたが)。レッドフォード版のニカッも、白い前歯をニカッと出すあたり、大変わざとらしいです。(「めぞん一刻」というマンガで、こういう技を使う二枚目さんがいたような・・・)ただ、こちらは主人公がギャツビーのことを嫌っている状態でスタートするので、OKなんですね(ニックは後半でその考えをあらためるのです)。
 緑の灯台、デカプリオ版はレーザー光線っぽくてきれいすぎます。レッドフォード版の方は、小さく頼りない光です。おかげで、遠くて手に入りません感がいや増します。
 音楽、デカプリオ版は、今風に四つ打ちでどんどんどんどん重低音が響きます。時代的にありえません。レッドフォード版は、いかにも当時のアメリカっぽい音楽です。

 ここから作品の核心部分・・・。
 デイジーを演じたのが、今回はキャリー・マリガン。知的な感じのする美女です。はっきり言って私、彼女のファンです。しかし原作のデイジーは、知的というよりは、むしろ状況に流されるあまりおつむの賢くない女性として描かれていたように思います。「女は美しいおバカさんでいればいいのよ」という名ゼリフがあるのですね。このあたりはレッドフォード版のミア・ファローの方が、いかにも浅い考えの美女(あるいは、意図的に深く考えないことにしている美女)という役所をうまく演じており、ギャツビーは「私のことを愛していると同時に、こいつのことも一時的に愛していたのか」おかげで深く傷つくことになるのですが、ついでに言うと、私の妻はこのシーンで「こんな女のどこがよかったの?」とつぶやいたのですが(同感)。
 そういうやるせない気持ちが、原作にはあったわけです。上流階級の連中は、やれ家柄がどうのとか言うけど、やってることは、人としてどうなのよ、みたいな。だからこそ、ギャツビーの不幸に、観る者は感情移入してしまうのです。「連中に比べれば、あんたの方がよっぽどマシだ」というニック・キャラウェイのセリフに心揺さぶられるわけです。
 ところが、デカプリオ版のキャリー・マリガンは、どうも知的に過ぎます。おかげでデカプリオの方が、逆ギレしちゃったよああなんだかみっともないヤツだな・・・みたいな流れになってしまっているのですね。なんだか後味悪く感じました。

 全体的に「ゴージャスな映像だなあ」という感じの作品でした。

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