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July 25, 2009

川上弘美「どこから行っても遠い町」感想

 川上弘美の連作短編小説。それぞれの短編の主人公は別だが、ほぼ同じ町を舞台に、共通の脇役が何人も出てくる。そういう構成になっている。

 作品中、まるで何かの詩を読むように、登場人物の一人がこうつぶやく。

『蛇は穴に入る
 天は雨を降らす
 土は雨に濡れる
 人はやがて死ぬる

「な、なんですか、それは」
「おれの二番目のかみさんの、口癖」』

 思うのだけれど、穴に頭から入った蛇は、出て行く時、しっぽから出て行く訳じゃあないだろう。ならば、どこかで方向転換をしているわけだ。ということは、穴はずっと細い穴のままじゃあないということなのか。きっと奥の方は広い部屋になっていて、そこで方向転換をするということなのだろう。
 蛇は穴に入って、奥の部屋で丸まって眠る。

「蛇は穴に入る」という表現は、一般的には、冬眠の季節が来たことをさす。
 人生には必ず冬の季節がやってくる。雨は時の経過、あるいは老いの比喩だろう。天は万人に平等に、時の経過と老いをもたらす。そして、人は死んでいく。

『誰も、おれを罰してはくれない。おれが、おれを罰することしかできない。おばさんが両手に提げていったつっかけは、小さかった。商店街の尽きたあとの道は、暗かった。おばさんはためらいなく、走りつづけていった。』

『つきあってよ、と言っていたおじさんの方は、しきりにあけみの機嫌をとりはじめた。あけみは、ほとんどおじさんを無視して、洗いものを続けた。あけみは六十歳を越えているように見えた。髪はまっ黒で、きれいにセットしてあった。』

 ストーリーが語られ、まるで思い出したかのように、あるいは後付けのように、情景描写がなされる。川上弘美独特の表現形式である。普通は逆だろうと思う。だが、かえって印象が強まる。余韻の残り方が違う。

 ストーリーそのものは、さしてドラマチックなわけではない。ドラマの展開のおもしろさで読む作品ではない。さまざまな比喩が多層的に重なり、人生の幸福とあやうさが、紙一重であることを、くっきりと浮かび上がらせている。

『いろいろなことなど、見たくない。つくづく、思った。でも、見なければ、生きてゆけない。そのことを、残念ながら、わたしはいつしか知るようになっていた。ここまで生きてくるあいだに。
「見たくないのに見るんだねー。」頭の中で、歌ってみる。』

 見たくないものを、それでもちゃんと見て、そのぎりぎりの危ないところを、何とかかわしながら生きてゆく登場人物たち。ある程度人生経験を積んだ人が読むと、本書の良さがより一層理解できるのではないだろうか。

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July 19, 2009

DVD「ウォーリー」感想

 ディズニー/ピクサーによるCG映画

 最初に広告を見たときは1986年の映画「ショートサーキット」の焼き直しかと思いました。なにしろ、ロボットのデザインがあまりにそっくりなものですから。

 でも違いました。「ショートサーキット」のNo,5は、軍事用ロボットが落雷の影響で心を持つという設定でしたが、本作のウォーリーは、ゴミ処理ロボット。しかも、人類が見捨てた地球で、たった一台、太陽電池と、スペアパーツを使ってなんと700年間も働き続けてきた・・・という設定。もうこの設定だけで、うるうるしてきます。特にオープニング。巨大なビルを俯瞰で見るシーン。妙に赤茶けたビル群に違和感を感じて見ていると、カメラはそこへぐぐっとズームアップ。実はそれはウォーリーがゴミをプレスして作ったブロックを丁寧に一つずつ積み上げたものだったという・・・。

 こういう設定大好きなんです。しかも、この設定部分を語る約30分間、台詞がほとんどありません。細やかな演出の積み重ねで、実に静かに、でも豊かに見せてくれます。こういう語り方は、日本人が得意にしていたと思うのですが、昨今はディズニーがすっかり自分のものにしてしまっているんですね。

 途中から人間が出てきたりすると、もう普通に今までのディズニー映画になってしまいます。船長が立って歩くシーンとか、どこかのアニメのパロディーのようで、大笑い。エンディングも、ディズニーらしい終わり方。でも、エンドロールの見せ方は、日本のアニメ映画やゲームのエンドロールのように、細かい芸と心配りが散りばめられていて、むむ、結構日本を研究してるな、という感じです。

 おまけの短編、宇宙船を修理するロボット、バーニーのお話も、やはりほとんど台詞なしですが秀作です。ロボット同士の無言の会話、その間の取り方が絶妙です。

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July 12, 2009

中村美知夫「チンパンジー ことばのない彼らが語ること」感想

 ここ10年くらいの間に、野生チンパンジーの観察報告から、衝撃的な事実(他グループとの戦争や、カニバリズム等)が次々とニュースになる時期がありました。それを見るたびに、「ああ、人が犯す過ちは、既にチンパンジーも犯しているんだなあ。きっとDNAの中にそういう要素が含まれていて、だから、我々は戦争や犯罪を犯すんだろうなあ。」などど妙に納得した気分になったものでした。本書は、そういう考え方は、人が自分で自分を納得させたいがために、観察結果の一部分を自分に都合よく解釈しているのではないか、というなかなか刺激的な主張をしています。
 以下に本文の要約を載せます。
『1996年ランガム「男の凶暴性はどこからきたのか(悪魔のようなオス-類人猿とヒトの暴力の起源)」によると以下のような主張がなされている。
 ヒトの暴力性はヒトだけのものではなく、チンパンジーと共有されたものだ。凶暴でオス中心のチンパンジーと、平和でメス中心のボノボという二項対立図式。
 これに対し、マークスは、そのような解釈には、解釈する学者の姿勢が投影されていると指摘している。自分との共通点をチンパンジーに見いだそうとしていると言うのだ。ヒトには凶暴ではない男もいるし、平和的でない女性も当然のことながら多数存在するというのだ。
 チンパンジーも、オスが単純に悪いことばかりをしているのではないのと同様、メスもまた単純に母性愛の化身ではない。
 子ども同士の喧嘩から発展するパターンは多い。最初は仲良く遊んでいた子どもたちも、だんだんエスカレートしてしまい、一方が悲鳴を上げることはよくある。すぐに泣かされた子の母親が飛んでくる。母親は我が子に非があるかないかなど関係なく、かならず自分の子どもに味方する。子どもの方もよせばいいのに、母親が来たことで気が大きくなって、母親をバックに反撃を加えたりする。泣かせたほうの子が今度は悲鳴をあげることになって、そちらの母親も駆けつける。母親の友達のメスも入り混じってギャアギャアと大騒ぎになることもまれではない。
 人間の社会で悪となるような行動はチンパンジーの世界にもいくらでもある。例えば強奪。ヒト以外の霊長類では、自分で採った食べ物はすぐに食べるため、そもそも何か価値のあるものを長時間所有するということがほとんどない。例外が肉である。肉は消費する(とらえる→食べやすい状態にする)のにある程度時間がかかるからだ。チンパンジーはアカコロブスという小型の猿を捕らえて食べる(このシーンを初めて映像で見た人は、サルがサルを食べるなんて! と、ほとんど皆ショックを受けるのだが、人間だって似たようなこと《大型哺乳類を大量に殺して食べる》を日常的にしているではないか。と言われれば何も言い返せなくなってしまう)が、その時に獲物の奪い合いが発生する。
 チンパンジーには政治的駆け引きや謀略、欺きといった行動が見られる。
 まず政治的駆け引き。他のオスと連合を組んで、自分の実力だけでは得られない地位を得る。状況によっては連合相手を変えることで自分の利益を最大限のものにする。具体的には、同盟相手のオスには丁寧に時間をかけて毛づくろいをし、肉を気前よく分配する。一方でライバルのオスには徹底的に自分の力を見せつけ、ライバルのオスが他のオスと毛づくろいしようとすれば突撃して蹴散らす。といった行動に出るのだ。
 次に欺き。えさがあるのを知っているのに、優位なチンパンジーの前では知らないふりをする。実際はいじめられていないのに、母親の注目をひくためにいじめられたふりをする。ポーカーフェイスで近づいていきなり攻撃をしかけるなど。
 こういった行動は人間社会では、あまり好ましいものと考えられていないが、霊長類の研究では彼らの社会的な知性の証拠として取り上げられる。
 だが、実際には他のチンパンジーと仲良くしたり、協力したりする行動も多く観察される。それらは、そうすることが自分にとって有利だからしているのだろうか。利益がなければ彼らはすぐにでも裏切るのだろうか。現代は、ダーゥイニズムの影響で、生物学の中心的な理論が、競争の原理で語られることが多い。ダーゥイニズムがここまで広く受け入れられるようになったのは、我々ヒトの現代社会のほとんどが競争の原理で成り立っているからだ。
 チンパンジーは同種個体を殺すことがあるし、強奪をするし、相手を出し抜いたり騙したりもする。オスだけでなく、メスだって喧嘩するときは喧嘩する。それは事実である。だが、それだけが強調されることは誤った見方である。
 殺しは悪か? 人も自分が生きるために殺す。そもそも自然界に見られる事実を人間界の価値に変換することが間違っているのだ。人間の道徳を、自然界から得ようとするのは誤りである。』
 また、文化についての考察もおもしろかったです。文字や言語を中心とした情報伝達によって、我々人類は他の生物を圧倒し、高度な文化を築いてきたと考えがちです。しかし、文化とはそのような、自分たちの生存に直接的な利益を生むものだけを限定して言うのだろうか? 人間にもハグや握手など、人種によってまったく違うあいさつがある。しかもそれらは、さほど機能的でも効率的でもないではないか。というのが本書のもう一つの主張で、なかなか説得力があります。
 今度から動物園のサルを見るときは、本書の内容を思い出してみようと思います。 

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July 05, 2009

湊かなえ「告白」と歌野晶午「絶望ノート」感想

湊かなえ「告白」

 先生の娘を殺したのは一体誰なのか? 一つの事件を、登場人物それぞれの視点から語る、多視点タイプの小説です。

 それぞれの人物にはそれぞれの事情があり、誰の判断が正しいのか、読めば読むほどわからなくなる・・・というよくあるパターンなのかと思ったら、違いました。ストーリーは結構二転三転するんですけど、結局はヒロインが復讐を完遂する話なんですね。こういう、自意識の肥大した中学生がごろごろいる時代なら、先生は復讐してもOK! みたいな作品を公に発表して、しかもそれを全国の本屋さんが一押ししちゃっていいんですか? 

 モンスターペアレントやケータイいじめに日頃手を焼いている学校の先生の一部は、読んでいる内に、知らぬ間に結構拍手喝采するのかもしれませんが(しませんよね)。

歌野晶午「絶望ノート」
 いじめられたという狂言ノートがもとで、次々に周囲の人間が人を殺していく話です。「神様、○○を殺してください。」狂言ノートに書かれた中学生の願望と、現実に起きた事件との間に、果たしてつながりはあるのか? 

 犯罪者の告白話という形をとっている点、語り手が複数いる多視点タイプの小説であるという点、自意識の歪んだ中学生が犯罪を犯すという点など、湊かなえの「告白」と、類似点が多々あります。しかし、後半の展開はまるで違います。おそらく「自分ならあんな話にはしない」と意識して書いたのではないでしょうか。

 ヒロインの復讐成功話ではなく、ラスト自業自得なところが、歌野流と言えるでしょう。皮肉がたっぷりきいています。

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