November 06, 2009

初野晴「初恋ソムリエ」感想

 難病でプロの音楽家の道をあきらめた天才少女と主人公の友情、そして天才少女の手ほどきを受けてめでたくコンクールに参加。あれ? どっかで読んだことのあるストーリー。あ、今年の中学生読書感想文コンクール課題図書「8分音符の・・・」じゃん。と思ったけど、途中から全然違う展開でした。そもそもジャンル的にはミステリーですし。「筋金入りのアンチ吹奏楽部だ。」以下のセリフが、実にリアリティたっぷりで、「8分音符の・・・」が、いかにご都合主義的な展開の作品であるかがわかってしまいます。そういうわけで、「8分音符の・・・」ファンは読まないほうがよいかも知れません。現実って残酷です。

 本書は高校の吹奏楽部のお話なんですが、途中で出てくる勉強方法のアドバイスは、なかなか的を射ています。

「大学受験の勉強の8割くらいは学校から配布される教科書を読むだけで充分だ。自己管理ができていないひとたちだけがスポーツジムに通うのと同じことで、自分で勉強できないひとたちが塾にいくんだよ。チカちゃんは授業の黒板を写すことで満足しているからダメなんだ、ちゃんと教科書を読まないからできないんだ。1時間程度の予習と復習を毎日するだけでいい。そのかわり、一日も休んではいけないよ」

 全国の受験生のみなさん、いかがなものでしょうか?

 文章はライトノベルっぽいです。会話が生き生きとしているのはいいんですが、時々「あれ、これ誰のセリフ?」的な部分があります。いやそこはまあ、雰囲気でなんとなくわかるでしょ的な・・・。まあ、わかりますけど。

 第2話が秀逸。地学研の部長のキャラが素晴らしすぎるし、FM放送で人生相談に応じるじいちゃんたちが、素敵すぎる。泣きました。

 こんなに面白いのに、表紙の装丁で随分損をしているように思います。ラブレターを後ろ手に持って立つ女子高生の後ろ姿の写真という、ぱっと見なんだか、普通のケータイ小説っぽいです。タイトルの「初恋ソムリエ」っていうのもちょっと・・・。ああ、中身はいいのになあ。

 「退出ゲーム」の続編ということだそうで、それらしいセリフが作中に出てきます。「去年の1年間、死にかけた吹奏楽部はあなたを中心にまわっていたわ (中略) 体育館のステージで、演劇部と対決していたし (中略) 発明部と一緒に怪しいことをしていたし」ああっ、こりゃ1作目も読むしかないなと思ったり。

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November 01, 2009

川上健一「ナイン 9つの奇跡」感想

 野球で「ナイン」というタイトルだと、あだち充のマンガ「ナイン」が有名ですね。で、本作ですが、老若男女、元プロからド素人まで、それぞれのドラマを抱えながらいっしょに草野球を楽しむ、野球好きな9人のファンタジー小説です。

 9人分のドラマがあるんだろうから、はたして全員の名前とキャラクターを覚えきれるかな? とやや不安を抱きながら扉を開くと、ちゃんとそこには登場人物一覧表があるんです。記憶力に自信のなくなりつつある昨今の私にも優しい作り、嬉しいなあ。

 サブタイトルには「9つの奇跡」とありますが、9人ともみんなちゃんと自分の意志で幸せを呼び寄せているところが、まあこういうお話の王道路線と言いますか、わかっちゃいるけど、ぐっときます。スポーツリアル路線のお話ではありませんので、ストイックに自分を追いつめて・・・とか、ライバルとのしのぎを削るような・・・とか、そういう描写はありません。勝つためにはあらゆる事を犠牲にして・・・という熱血体育会系の方が読んだら、ラストは頭に来る展開かもしれません。お前らスポーツなめてんのか? とか言いたくなりそうです。でも、文系の私にとってはこの読後感、たまらなくさわやかです。

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October 24, 2009

寄藤文平「元素生活」感想

 イラストレーターの寄藤さん、今度は元素で一冊描きました。

 元素というと「スイヘイリーベボクノフネ」で憶えさせられた、例の118ある元素周期表が頭に思い浮かぶ人も多いと思います。本書はあれを、118人のさまざまな姿形の人型キャラクターで表現。元素を14の性質に分ける際、見た目でわかりやすくするため、髪型を14用意してあったり、原子量を体重(ガリとデブ)で表現してあったり、見た目で元素の性格がわかるように様々な工夫が施されています。自分のよく知っている元素が、どんなキャラで表現されているか、それを見るだけでも楽める一冊です。

 さらに、一つ一つの元素が、今どんな分野で活躍しているか、簡単なコメントが載せられています。へえ、この元素はこんな分野で重宝されているのかと、新鮮な驚きがあります。ただ、元素番号が100番超えるあたりからは、天然には存在しないためか、コメントもどんどん少なくなり、112番の「ウンウンビウム」以後の「ウンウン」シリーズはコメントすらありません。名前は怪しさ大爆発なんだけど、一体どんな元素なんだ(笑)? 知りたい!

 最後の方で、レアメタルの獲得が今後の日本の産業の命運を握っているという、最近よく話題になっている話が出てきます。中国大陸でしか採掘できないレアメタルがかなりあり、しかもそれがないと、日本お得意のハイテク産業が成り立たないらしいです。ケータイ(レアメタルをたっぷり含む)のリサイクルも本腰入れねばならない時代が目前まで来ているのかも。

 

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October 17, 2009

「yomyom」2009年10月号感想

 久々に小野不由美の十二国記新作を読みました。今回も「yomyom」で。

 タイトルは「落照の獄」 死刑廃止、是か非か論を十二国記の舞台、しかも国が傾きつつある柳でやってみました。という感じ。暗い。ひたすら暗い話です。私は、凶悪犯罪者の矯正なんて、犯罪者本人の記憶を書き換えない限り(あるいは「十二国記」のように、たまたま楽俊と出会っちゃいました~みたいな奇跡がない限り)誰にもできっこないと思っているので、ラストなんか、何をいまさらという感じです。そもそも人が人を裁くことの是非は、似たようなテーマの小説やら映画やら、ここ2~3年で結構たくさん出てますので、今さら無理に十二国記の舞台を使って書く必要もないと思うのですが。どなたか近しい方が、何か事件に巻き込まれるとか、あったんでしょうか?

 森見登美彦「この文章を読んでも富士山に登りたくなりません」
 同じく雑誌「yomyom」収録のエッセイ。富士登山は未経験です。登った人の話を聞くと「ただ同じような斜面をひたすら登るだけで、登って面白い山じゃあないよ。特に美しい景色が楽しめるというわけでもないしね。そりゃあ高いところに登るんだから、下界を見下ろす時の気分は格別だけど、それはどの山でも同じだし」なるほど、そんなもんですか。

 本書では富士登山をすることによって、まだ登っていない人に「え? まだ登ってないの? 日本人なのに?」と意地悪できる! みたいな書き方なので、読んでいて実に力が抜けます。登山そのものよりも、頂上で食べた800円のカップラーメンがうまかったとか、下山してから食べたかき氷が体にしみわたったとか、御殿場で温泉に入ってホッとしたとか、まあ別に富士登山じゃなくても書けそうなことばかり(笑)。

 実際山頂に立った時の気分は「感無量なのかどうなのか、自分の気持ちもよくわからない」と、森見さんもそう書いています。まさしくタイトルに偽りなし!  それに酸素薄いの、私は超苦手ですし。

 ところが、これを読んだ妻はなぜか「富士山登りたい」・・・え? なんで?「だって、これって露骨に富士山登ったこと自慢してるじゃない」なるほど、そっちですか。山岳部の息子までもが「うん、登りたいな」まあ、山岳部なら一度は・・・ですか?

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October 10, 2009

映画「おくりびと」感想

 テレビで早くも放映されたので、ありがたく拝見しました。実にまっとうな映画でした。

 前半で、知人にせっかくもらったタコを、くねくね生きてるからという理由で川に逃がしてしまうシーンがあります。でも、逃がした時にはタコはもう死んでいた。ぷかぷかと川に浮かぶタコの死骸。どうせ死ぬのなら、ちゃんと食べて、自分の栄養として、生の糧として、役立ててあげれば、まだよかったかもしれない。これは後半の、フグの白子のエピソードで生きてきます。生命そのものを食べる行為が、「うまいんだよなあ。困ったことに。」というセリフにつながっているのですね。

 露骨な職業差別は結構見ていてへこみました。奥さん(広末涼子)の「さわらないで、穢れる」とか「子どもに、ちゃんと自分の仕事を言える?」とか、走り屋の高校生のせいで事故死した娘の親族が、葬儀に来たヤンキー高校生に向かって「一生あの人(本木君を指さして)みたいな仕事してつぐなうか?」「すみませんでした」とか、そうか、そんなにみんな、心の底からこの仕事を蔑視してるのかって、思い知らされるようにドラマは進行します。そういう風にこの映画は作ってあるわけです。

 「そんなに死体に触った手はいやか? そんなに死は恐ろしいか? 忌み嫌うものなのか? 穢れは移るものなのか? でも、自分の肉親の死体なら別なのかよ? 肉親の死体ならさわってもOKだけど、他人の死体はダメ? それって、かなり自己中心的な考え方のような気がするんですけど。それともそう思う私のほうがおかしいんでしょうかね? 納棺師って、普通にいい仕事じゃん。死者をすごく大切にする姿勢とかさ。」

 映画は、見ている者が上記のように思ってしまうように、ドラマを展開させていきます。で、奥さんも実際にその目でダンナの仕事ぶり、心の籠もった対応ぶりを見て、考え直したりします。このあたり、わかっちゃいるけど、いい展開です。

 ところで、納棺師って、いつから生まれた職業なんでしょうか? 今はこういうスタイルがスタンダードなんでしょうか? 私の祖母が亡くなった時は、私の母や叔母達が、みんなで湯灌して、化粧を施してから納棺してましたが。・・・本来は親族がする事のような気がします。

 それはさておき、本木君、こういう所作の美しさが必要な役、まさにはまり役ですね。本当に美しかったです。

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October 04, 2009

DVD「フィッシュストーリー」感想

 伊坂幸太郎原作ですが、未読です。まったく時代も場所も違う4つのストーリーが、ラストで一つに収斂していく、伊坂さんお得意のパターンでした。結末からストーリーを作っていくんでしょうかね。でも伊坂さん、このパターンは別のお話でもっと効果的なのがあったような気がします(ラッシュライフ)。

 レコード屋に来ているお客の兄ちゃん、実に煮え切らない性格に設定されてますが、原作もこんな半端な役だったんでしょうか? 地球最後の日に、レコード屋でぷらぷらしてるにしては、感情の起伏が激しすぎるし、生への執着が、ありすぎなんですけど。

 ボーカル役高良健吾君の歌は抜群によかったです。それに「これは誰かに届くのかな? なあ、誰か聞いてんのかよ。今このレコード聞いてるやつ教えてくれよ。届いてんのかよ。これ、すっげえいい曲なのに、誰にも届かねえのかよ。ウソだろ。この曲は誰に届くんだよ。」はしみじみよかった。まるでニューアルバム「⊿」出す直前の、perfumeのあーちゃんの心境みたいです(音楽雑誌「ROCKIN’ON JAPAN」のインタビューをご参照ください)。

 「僕の孤独が、魚だったら、巨大さとどう猛さに、鯨でさえ逃げ出す」の歌詞もおもしろい比喩です。意味ないとか言ってるけど、なんだか村上春樹の翻訳っぽいテイストがあるところがいいです。

 多部美華子が、やはりよかったです。「私こんなところにいるの場違いなんですけど」みたいな表情で、よたよた宇宙船に乗り込むところとか、ラスト寝ぼけ顔で「すいません」とかが、実にキュート。

 森山君、頼むからサービス業らしく、髪をもっとすっきりさせてください。

 濱田君の「立ち向かえよ。なんで帰れって言われて、帰ってんだよ」には大笑い。こういう役、ドンピシャではまりますね。

 あと、予言する晴子役は、バイオリニストの宮本笑里に似た、目の大きな美人さん。高橋真唯さんですか。憶えとこう。

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September 25, 2009

DVD「デトロイト・メタル・シティ」感想

 自分が歌いたい音楽と、世間に受け入れられる、いわゆる売れる音楽とは違う。世の中の、売れるようになったバンドの相当数が、この現実を受け入れて、歌いたい音楽ではなく、売れる音楽をリリースしてきたのではないかと思う。
 それまでずっと、とんがった曲調の、売れそうにない曲ばかりリリースしていたバンドが、ある時たまたまキャッチーなメロディーの曲を作ってしまい、それが売れてしまう、そんな時がある。「そうか、こういう曲を出せば売れるのか。」それに気がつき、バンドの方向性をそちらへ修正した、そうやって売れるようになったバンドを今までに沢山見てきた。軌道修正に気がつかなかったバンド、あるいは、そういう音楽はやりたくないと初志を貫いたバンドは、そのほとんどが、いわゆる一発屋で終わってしまった。

 一例として、バンドではないが、テクノポップユニットとして成功したPerfumeを引き合いに出そう。それまでアイドル路線ではまったく売れなかったグループが、「ポリリズム」でやっと売れ始めた、そんな時期の、あるTV番組でのインタビューである。

かしゆか「最初はテクノっていう音楽自体、聞いたことがなかったので」
あーちゃん「なんでこんな曲調なんだろうって思ってたんですけど」
のっち「感情をもっと前に出したいのよ、熱唱したいのよ、みたいな」
あーちゃん「高校生になったら、やっとテクノのよさがわかってきて・・・」

 本作も、主人公が本当にやりたい音楽は、ふにゃふにゃした毒にも薬にもならないようなポップミュージック(失礼)である。たぶんこの曲をよいと感じる人は、世間ではものすごく少数派であろう。マーケットとしてはとても小さく、商売としては成り立たないと思われる。路上で演奏する彼の曲をちゃんと聞いてくれるのは、犬だけである。その犬でさえも、途中で主人公を見放してしまうくらいだ。そんな主人公に、レコード会社の社長が歌うよう命じたのは、ヘビメタ(デスメタルバンド)であった。ところがこれが、主人公の本来持っていた才能を開花させ、伝説的なメタルバンドになってしまう。社長は彼が持っている隠れた才能に気がついていたのだ。
 本人は「僕がやりたいのは、こんな音楽じゃないのに」といいつつ、仕事をそれなりに一生懸命こなしていく。
 もとが劇画らしいので、ストーリーの展開は漫画チックで、ありえないシーンが次々出てくる。だが、どのシーンにも熱いエネルギーが感じられ、そのため細かいところはあまり気にならず、最後まで一気に見ることができる。この映画のために作られた曲も、いずれも熱い魂の名曲ばかりである。

 一部(というか、かなり)教育的ではないシーンがあるので、そういうのに目くじら立てるタイプの人は、決して見てはいけません。

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September 19, 2009

鷲田清一と内田樹「大人のいない国 成熟社会の未成熟なあなた」感想

 以前、村上春樹の作品に対し、「この人の作品を読む時、私は、その中に出てくる物や服、音楽といったものが持つ固有の性格を楽しむことにしている。登場人物を囲むそれらの物が、静かに登場人物のアイデンティティを物語る。それを感じ取るのがおもしろいのである。」という感想を書いたことがあります。本書の「労働を通じて何を作り出すかではなく、どんな服を着て、どんな家に住み、どんな車に乗って、どんなレストランで食事をするか・・・といった消費活動を通じてしか自己表現できないと思っている」という内田さんの意見は、的確な村上春樹への批判になっていて面白いと思いました。

 「自分は純然たる被害者である。」「責任者は誰だ?」という犯人捜しの語法で社会問題を論じる人。「こんな日本に誰がした」みたいな言い方をする人。自分もその一人のはずなのに、自分には責任がないと思っている。それは「私は子どもです」と言っているのと同じ。なるほど、そうですよね。「日本を駄目にした○人の政治家を断罪する」みたいな本が結構売れてますが、他人の批判と同じ分量で、自分の批判もきちんと論じるといいのかもしれません。

 「愛国論を説く人は、自分と同じ考えを持つ人たちだけで、小さな国を造るしかない。それは北朝鮮を作るのと同じ。」どんどん国が小さくなっていくんでしょうかね。それで戦争ばかりする世界になるのかな?

 「妥協をしたくない若者が増えている。彼らは、世の中には「操作する人間」と「操作される人間」の二つしかないと思っている。」中間も確かにたくさんいます。むしろ中間層が世界のほとんどを占めているのではないでしょうか?

 「価値観が同じ人と結婚すると、子どもは一つの価値観の中でしか呼吸できない。二つの価値観を提供する家族が望ましい。子どもは矛盾するその二つの中で揺れ動き、成熟するから。」うーん、我が家はかなり価値観が違う二人の結婚だったと思います。妻が言うには、「絶対県外出身の人と結婚したかった。遠くの血が混じった方が、優秀な子どもができるんだって。知ってた?」などというようなことを言っていました。ふーん。

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September 13, 2009

本多孝好「チェーン・ポイズン」感想

 タイトルは訳すと「毒の連鎖」あるいは「連鎖する毒」とでもなるのでしょうか? 人生に価値を見失った人、生きることに疲れた人たちに、ある人物がそっと毒薬を差し出す。その結果、自殺が連鎖していく。そういうドラマを暗示したタイトルのようです。

 本書は二人の主人公の視点で交互にドラマが語られます。一人は、生きることに何の希望も見いだせなくなった、疲れた中年OL。もう一人は、東京都内で連鎖する、服毒自殺の原因を追う中年男性新聞記者。

 OLの語るドラマが秀逸です。いくつか抜粋します。

「私が男なら、私など選ばない。若くもなく、綺麗でもなく、何の取り柄も、個性すらない女をわざわざ選びはしない。」「週に五日は雑用をこなし、残りの二日で思い切り息を吸い込み、また続く五日間。水中に身を沈めるように暮らしていく、その未来を。たとえば定年まで。あと二十年以上。それは簡単に想像できる分、絶望的な未来だった。」「考えてみれば会社で名前を呼ばれることなどほとんどなかった。私はそこでどうでもいい雑用をこなす個性のない生き物だった。」

 冷静に自分を取り巻く状況を分析するメタ認知力、それを持った女性として描かれています。つまり決して彼女は没個性な人間ではない。ただ周囲が彼女の個性の価値に全く気づいていない。そういう設定です。 そんな彼女が、児童養護施設でボランティアとして働き始る、その最初の日に園長が言います。「あなたという人間は確かにここにいて、あなたという人間が生まれてきたことを私たちはうれしく思っている。」それだけは子どもたちに必ず伝えろと。だから必ず子どもたちは名前で呼ぶように。

 彼女は、ひょっとして、生きる道を選び直すのではないか? そんな予感がちらりと見える一瞬です。

 養護施設の小学生エリちゃんに、思い切り短いスカートを選んでやり、「簡単には見せちゃ駄目。見えるか見えないかくらいがいい」と、同じクラスの男の子をいかに自分に振り向かせるかで悩んでいるエリちゃんへアドバイス。そんなアドバイスできるくらいなら、あんた自分が若い時に何で実践しなかったんだと突っ込みいれたくなります。まあ、実践できなかったから今があるんでしょうけど。でも、こういった何でもないセリフに、バイタリティの強さ、生きる力を感じるのですね。異性の心をゲットする=生きる意欲ですから。

 「二千万。それでどれだけ時間を稼げる? あんたが外で働いて、この家で暮らして、生活費をなるべく面倒を見て、役所はだまくらかしながら最低限の人を雇って、それでどれだけの時間を稼げる?」「やれる、かな」「かなじゃない。やるんだ」「あ、でも、その二千万て、何? どこから出てくるの?」「私が出すよ」「おばちゃんが?」「あと半年もすれば入ってくる予定」

 ドラマが全体の3分の2を越えるあたりで、自分の生命保険金をかけてまで、養護施設を存続させようとする、彼女のたくましい言葉が聞けるようになります。ただ、このプランのためには半年後に自分が必ず死ななければなりません。子どもたちから必要とされる存在となった今も、死ぬことにまったく迷いを見せない彼女。ほんとうにそれでいいのか? 本の外から何度も彼女に呼びかけたくなります。

 そしてラスト30ページの劇的な展開。そう来ましたか。

 人生に意味はない。人生はむなしい事ばかりだ。それなのになぜ、わざわざそんな道を選ぶのか? その答えがはっきり見えてくる作品に仕上がっています。

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September 05, 2009

DVD「パコと魔法の絵本」感想

 もとは演劇作品。それを「下妻物語」や「嫌われ松子の一生」の中島哲也監督が映画化・・・などという事前予備知識いっさいなしで観ました(妻がやたらと勧めるので)。すると、どこかで味わったことのあるテイスト。例えば、色使いはかなり鮮やかな原色系。これは確かに中島監督っぽい色です。いやそれ以前に、こういうケレン味たっぷりの涙と笑いのシナリオは、以前どこかで体験したような・・・見終わってから、もとが演劇であること、そしてその劇のタイトルが「ガマ王子VSザリガニ魔神」であること。脚本は後藤ひろひとであることを知りました。後藤ひろひと・・・思い出しました。昔「ダブリンの鐘つきカビ人間」で思い切り笑って泣かされた記憶があります。あのテイストが、本作にもあるのですね。納得。
 医者に「思い切り泣いたら涙は止まるよ」と言われて、いきなり二人同時に泣き出すとか、ラストとか・・・危険です。いきなり涙がどわーっととまらなくなるシーン目白押しです。
 「おまえがワシのことを知っているというだけで腹が立つ」とうそぶくクソジジイの大貫は、なぜパコの記憶に残りたいと思うのか。なぜ「誰かのために何かしてあげたい」と思うようになるのか。
 パコは美少女です。演技しているのは、ハーフの女の子だそうです。彼女が絵本を読む時の「ゲロゲーロ」には、強烈な破壊力があります。こんなかわいい女の子が、「大貫、きのうもパコのほっぺに触ったよね」と言ったら、大貫が無条件降伏するのも当然かも知れません。でも、もしパコが美少女じゃなかったら。もしパコの「ゲロゲーロ」がちっともかわいくなかったら。もしパコが深刻な病気じゃなかったら。もしパコがひとりぼっちじゃなくて、両親が生きていたとしたら・・・。果たして大貫はパコの心に残りたいと思ったでしょうか? かわいい美少女が不幸って設定は、安易だし反則なんじゃないですか?
 パコが毎日読む絵本「ガマ王子VSザリガニ魔神」も、ストーリーとしては何だかなあ・・・という感じのものです。池のみんながザリガニ魔神にやられてしまった。「許せない」と言ってガマ王子が立ち上がる。それって、単なる復讐ですよね。運良くザリガニ魔神を倒せたとしても、池のみんなは帰ってこないのではないですか? だったら何のために戦うのですか? 自己満足のためですか? 
 でも、本作は、安易だろうが反則だろうが、とにかく大貫が人生で初めて「誰かのために何かしてあげたい」と思い、そのために何をしたらいいのかを悩み、考え、実行する話なんです。大貫だけでなく、病院にいるみんなが、パコのために何ができるかを考え、行動に移す。その過程の一つ一つが、とてつもなく美しい、そんな映画です。 

 機会があれば、劇のほうも観てみようと思います。DVDで出ているようなので。

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August 29, 2009

DVD「十二人の怒れる男」感想

 「12人の怒れる男」は、アメリカ版がもっとも古く(ヘンリー・フォンダが若いっ!)次が日本版、そして今作のロシア版が最新となります。父親殺しの容疑(本作では義父殺し)で起訴された少年を、12人の陪審員が狭い部屋の中で、有罪か無罪か、全員一致するまで、延々と話し合って決めるという筋立て。ほとんど室内のシーンばかりで、今風のCGのような、絵的に派手な演出は使えないので、かえって監督の才能が問われる作品です。日本でも陪審員制度が始まり、にわかに脚光を浴びているジャンルと言えますね。
 さて、本作は登場人物が前2作と違い、男ばっかりです。全体的に女性蔑視的な視点で作られています。アメリカ版のような、論理的な展開ではなくて、各人の体験打ち明け話の連続。いかにもロシアチックな話が次々に語られます。で、そのあい間に、被告である少年のドラマが挟まるのですが、それは映像のみで語られます。これ見て大体のところはわかってくれい! というパターンです。

 そりゃ、それぞれ皆さん事情はあるでしょうよ。ナイフの扱いがうまい理由とか、チェチェンとロシアの関係とか。でも、12人全員のドラマを見なきゃならないのかと、映画を見ているほうは、ややウンザリ。

 判決も、当然のように二転三転しますが、最後はいかにもロシア的な感性で全員一致となります。いいのか、そんなんで(笑)?

 これを見る時間があるなら、アメリカ版や日本版を先に見た方がよいと思います。

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August 23, 2009

南部ヤスヒロ「じみへん倫理教室」感想

 中崎タツヤ氏の「じみへん」は若い頃に愛読。本書に所収の作品は、未読のものも結構あり、楽しめた。でも、作品についての解説というか南部氏の語りが前作ほど切れ味がなく、つまらない。「じみへん」だけを読んでいる方がずっとおもしろい。困った。だから私がマンガのあらすじをいくつかと、そしてその感想を書いてみる。

 校舎の屋上で鈴木君が悩んでいる。
「結局はみんな死んじゃうんだ。だとしたら、人生って意味ないよ」
それに対し先生の「鈴木・・・今ごろ気づいたのか」
帰りのバスで運転手が「今ごろ気づいたんだって」
川土手ですれちがうボクサーに「今ごろ気づいたんだってな」
近所の奥さんたち「今ごろ気づいたんですってよ」「まあうかつだこと」
やくざさん「今ごろ気がついたらしいのお われ」
外人さん(宗教勧誘?)「イマゴロキガツイタノデスッテネ」
ラストは意外な人物? にまで「イ~マ~ゴ~ロ~・・・」と言われ、ついに鈴木君が「すいませんでした」とあやまる。
 そういうマンガなのである。

 別の回では、世界征服を目論むキラー様の秘密基地で子分Bが、「キラー様も私もいつかは死ぬじゃないですか。だとしたら世界征服になんの意味があるんだろうって」と悩みを打ち明ける。それに対しキラー様は「人生って意味ない。でも日々の生活に喜びはある」

 違う回では、恥ずかしげなことを臆面もなくぬけぬけと言えるぬけぬけマンが登場。「人生に意味なし されど生活に喜びあり 私は今を生きる」

これって、あいだみつおをパロってますか?

 そもそも人間だって、他の生物と変わりはない、同じ地球上で生まれた生命体である。だとしたら、ゾウリムシの一生の意味と、人間の一生の意味は、そんなに変わりないはずだ。ようするに、食べて、産んで、自分の遺伝情報を次世代にバトンタッチ。そして死んでゆく。生きる意味とはそれくらいのもんである。しかも、その作業は両方とも、大量にエネルギーを消費する大変なもの。逃げまわるエサを捕まえるために、一体どれだけの苦労をしなければならないだろう。子どもを産むために、どれだけの血と肉が必要だろう。ゾウリムシがバリバリと二つに分裂するシーンは、見ていると実に痛そうである。だから、我々地球上の生命体には、その時苦しさを感じないように、摂食や生殖につながる行動に快感を感じるメカニズムが備わっている。きっとゾウリムシだって、エサを体内に取り込む時や、二つに分かれて増殖する時、気持ちいいはずなのだ。などと考えたりしてしまうのである。
 不幸のどん底にいる人物が、ラーメンやカツ丼を食べて「うまいよお」と泣きながらつぶやく、そんな映画や刑事ドラマはそれこそ本当にたくさん見てきた。
 呼吸は苦しく、筋肉は悲鳴を上げている。それなのに、獲物を捕まえるために、ひたすら走ったり投げたり蹴ったりする。そんなことが、なぜかすごく気持ちいい。それが形を変えてスポーツというものになったという事も、我々は知っている。

 海の防波堤の突端で試験に落ちた高校生を励まそうとおじさんが言うセリフ。
「人生晴れの日もあれば雨の日もあるしよ」「人ごとだからそう言えるんです」「君がいなくなったらご両親がどれほど悲しむか」「脅迫ですよ」そこで別のおじさんが言う。「都会には私たちが思ってる以上に孤独な女が多くて やさしくしてやれば イチコロ」「ありがとうございます 生きる勇気がわいてまいりました」まさしく生きる勇気がわいてくるお話。生殖行為への希望は生きる勇気です。きっと。

 最後にもう一作品。
 中学生の男の子と母親との会話。「平野高にするか平野北高がいいか迷ってるんだ」「バカだね。そんな大事なこと自分で決めちゃダメよ」「大事なことだから自分で決めるんだろ」「ぜーんぜん」「他人が決めて失敗したら悔いが残るじゃないか」「失敗したら自分で決めたって悔いが残るさ。いいかい、人間てのはつらいことがあると誰かのせいにしないと生きていけない弱いものなのよ。庶民がながい年月にわたってつちかってきた知恵なんだよ。そうやって精神の安定をはかってきたのよ。全部自分で背負って生きるって、たいへんなんだから。逃げ道は用意しとくもんだよ」納得です。最近始まった陪審員制度も、大事なことだから他人に決めさせてるんですよね。そうやって他人のせいにして逃げ道を用意してるんですよね(あれ? 違うか?)。

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August 14, 2009

小林朋道「先生、シマリスがヘビの頭をかじっています!」感想

 最近「先生、子リスたちがイタチを攻撃しています!」という新刊が出たばかりの、小林先生のちょっと前の本です。

 『以前住んでいた岡山駅の近くの新幹線の架橋に、スプレーでサインを描いている個体を見たことがある。深夜の二時頃だった。その個体は、10代後半くらいの若い男性だった。・・・中略・・・「若い男性」というのは、少年期から次の段階へ進み、地域の大人社会の中で、自分の存在を受け入れてもらい、また異性に自分の魅力をアピールしなければならない時期である。そういう意味で、同世代の同性などとの競争もより強く求められる時期である。・・・中略・・・
 タヌキは哺乳類では珍しく一夫一婦制(例外はヒト)で、共同トイレにタメフンをする。このタメフンを通して、「そろそろお嫁さん募集します」などの情報を交換しているらしい。鳥取駅周辺のサインも、タヌキのタメフンでのニオイづけに近いのではないか。「この場所はおれのなじみの場所なんだ。おれはここにいるんだ」「おれを認めてくれ、おれを知ってくれ」サインの作者たちにお願いしたい。駅前でサインを書いて自分をアピールしたいという思いを、共同体の皆が「よくやった」と思えるような行動に結びつけてほしい」』
 まあ、言いたいことはよくわかるし、その意見には同意します。しますけど・・・これを読んだ当の若者が「はい、がんばります」と素直に思うかどうかは、ものすごく疑問です。

 『テンも含めて、そして人間も含めて、多くの動物の雌には、「その雄の精子を受け取ったとき、自分や自分の子どもがどれだけ得をするか」をじっくり探ろうとする特性が備わっている。その理由は受精卵から子育てに至る一連の過程で、小さな精子だけを提供する雄に比べ、雌は大きな負担を強いられるからだ。だから交尾相手の選択は、雄よりも雌の方が慎重になるのである。競馬に1000円かける場合と、10万円かける場合とでは、慎重になる度合いが違うようなものである。たとえば人間の場合、女性は、少なくとも数万年前の社会では、狩猟がうまく、配偶者や子どもを守る能力に長けた男性を選ぶ傾向があったと考えられている。現代では、財や地位といった、獲物の代替物を得る能力や、配偶者や子どもを守る能力に長けた男性を選ぶ場合が多いことが、世界中のさまざまな国や地域で確認されている。また、現代に生きる狩猟採集民についてのある研究では、女性に好まれやすい男性の性格の中には、「忍耐強さ」や「やさしさ」という特性もかなり上位の優先要素として含まれることもわかっている。もちろんそれらは「獲物の代替物を得る能力や、配偶者や子どもを守る能力」にも深くつながる特性ではあるのだが。』
 本書では書かれませんが、この他にも、ヤンキー大好きな傾向というのは結構いろんな生物に共通して見られるようで(ここでいうヤンキーとは、金色などメタリック系の派手な装飾を好む傾向の人たちを指します)、これはどうやら「どうだ、俺(孔雀のオス)はこんなに羽が長くて派手だぞ。おれはこんなに目立つ装飾品を持っていても大丈夫なくらい余裕があるんだ」とアピールしているらしいですね。食べ物にまったく不自由していない、ゆとりのある環境にいる個体は、食べたものを活動のためのエネルギーではなく、派手な装飾を作るほうに回す。派手であればあるほど、生活にゆとりがあり、たっぷり栄養のあるものを食べていることの証明となる。だから、メスは一番派手なオスについていこうとする。ただし、この傾向は外敵に襲われることのない環境下でしか観察されないそうです。天敵の多い厳しい環境のもとでは、余計な装飾品を持った生物は激減する(そんなもの持っていると、天敵に発見されやすく、襲われた時に逃げられないから)という観察データがあります。ヒトも、戦争が始まると(ヒトの天敵はヒト)ヤンキーには見向きもしなくなるのでしょうか? 派手好きな遺伝子を強く持った女性は、早婚の傾向が強く、相手の能力をじっくり探ろうとする遺伝子を強く持った女性は、晩婚の傾向が強いようにも思います。

 『何らかの理由で散歩に行きたくないイヌが、片足を引いて足が痛いそぶりをする。イヌは芝居をするのである。
 ワタリカラスが、自分が餌を隠した場所の近くで、仲間が通り過ぎるまで餌の方を見ないようにして待ち、仲間が十分に遠くへ行ってからはじめて、餌を引き出して食べる。つまり、カラスは仲間を騙すのである。』
 チンパンジーも似たようなことをするというのを、別の本で読んだけど、こういう行動ってチンパンジーだけじゃないんだというところが、ちょっと驚きです。特に、鳥類がそういう知恵を持っているとは!

 動物を観察していると、人の不可解な行動の理由や原因が見えてくる、そういう発見のたくさんある本です。

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August 06, 2009

DVD「マンマ・ミーア」感想

 アバの名曲をリアルタイムで知っている40~50代の方には、この作品は文句なくお薦め。

 もとは舞台で上演されていた大ヒットミュージカルを映画化したもの。普通のミュージカルと違うのは、ストーリーにあわせて歌詞を書くのではなく、既に存在するアバの名曲の歌詞にあわせてストーリーが展開するところ。今まで歌詞の意味など気にもせず聞いていたあの名曲が、実はこんなとんでもない衝撃的な歌詞だったとは! おかげでストーリーもかなり衝撃的かつ笑激的! パパ結局誰なの?  

 ヒロインの二人の女友達は、冒頭だけ出番があって、あとはおばさん3人組に圧倒されまくり。すごいパワーです。メリル・ストリープが娘の結婚式の最中に、過去の大恥をさらされるシーンがあります。穴があったら入りたい所を、逆におじさん3人組が、勇気を持って告白することで救う。おじさんたちも立派です。ただ、おじさん3人組のうち残り2人って、ああいう結果でよかったのかな? 

 最後のステージ、一曲歌い終えたおばさん3人組が、「もう1曲、いくかい?」と言うシーンは、なんだか忌野清志郎のセリフっぽくて笑いました。 

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August 01, 2009

百田尚樹「風の中のマリア」感想

 「ボックス!」でちょっと有名になったらしい百田氏の新作
 今回の主人公は大スズメバチ。しかもしゃべります。人間並みの難しい思考やら哲学的思考やら、はては恋愛感情やらを持ったりします。「あ~、そういう擬人化した動物主役系物語は苦手!」という方は、もうこの時点で読むのをやめましょう。
 リアリティ追求といった視点で本書を読んではいけません。

 人間並みの難しい思考 その一例
「あたしたちアリもあんたたちスズメバチも、巣全体で一つの生き物なんだよ」「どういう意味?」「女王バチは卵巣で、ワーカーは手足だ。一頭一頭はばらばらに見えるが、実は全部合わさって一つの生き物なんだ」
「ワーカー同士で見れば、姉妹であるワーカーは平均75%のゲノムを共有しているのに対して、ワーカーが娘を産んだとしても、その娘は50%しかゲノムを共有していない。ということは、私たちワーカーは自分の子どもを作るよりも、『偉大なる母』が産んだ妹たちを育てる方が、結果的に私たちのゲノムを次の世代に残せる確率が高くなるということなの」 
 ゲノムを残す確率だなんて、まるで高校の生物の授業で習うようなことを、スズメバチが平気で話し出します。教科書もないのにいったいどこで習ったんだよ(笑)。 ストーリーの中にいきなりこんな場面が登場、しかもそれが一度や二度ではないので、読んでいて面食らうこと甚だしいです。昔、子どもが見ていたTVの宇宙刑事ものを思い出しました。主人公が宇宙刑事に変身するシーンで「解説しよう。○○は△△によって××を蒸着し、無敵の宇宙刑事ほにゃらら~になるのだ」とかやってました。「解説しよう。スズメバチは、女王バチの産んだ妹を育てることによって、より多くのゲノムを次世代に残し、無敵のスズメバチ軍団となるのだ」みたいな感じ? いやむしろ、スズメバチがゲノムについて突然講義を始める本書のスタイルよりも、「解説しよう」とか言って解説者がストーリーに割り込むあっちのスタイルのほうが、まだましなんじゃないですか? 

 人間並みの哲学的思考 その一例 
「マリア姉さん、私たちは何のために生まれてきたの」
せいぜい悩んでください。ゲノムを次世代に残すためでしょ、きっと。

 人間並みの恋愛感情 その一例
「マリア、君は美しいね」「そんなこと言われたのは初めてよ。私は戦いしか知らない戦士なのよ」「君が女王バチならよかった」
第三者が聞けば、たちまち歯が浮くような純愛のセリフですが、ハチが隣で聞いたらキバが浮くのでしょうか? ハチの世界にも韓流とか、あるんですかね?

 読後の感想は、「スズメバチの生き残り戦略って、結構綱渡り的ですな~。一歩間違えたら全滅じゃん」というものと、「あ~、スズメバチのいいお勉強になった~」の二つが混じったような感じです。文学的価値はほとんどないかと(笑)。 

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July 25, 2009

川上弘美「どこから行っても遠い町」感想

 川上弘美の連作短編小説。それぞれの短編の主人公は別だが、ほぼ同じ町を舞台に、共通の脇役が何人も出てくる。そういう構成になっている。

 作品中、まるで何かの詩を読むように、登場人物の一人がこうつぶやく。

『蛇は穴に入る
 天は雨を降らす
 土は雨に濡れる
 人はやがて死ぬる

「な、なんですか、それは」
「おれの二番目のかみさんの、口癖」』

 思うのだけれど、穴に頭から入った蛇は、出て行く時、しっぽから出て行く訳じゃあないだろう。ならば、どこかで方向転換をしているわけだ。ということは、穴はずっと細い穴のままじゃあないということなのか。きっと奥の方は広い部屋になっていて、そこで方向転換をするということなのだろう。
 蛇は穴に入って、奥の部屋で丸まって眠る。

「蛇は穴に入る」という表現は、一般的には、冬眠の季節が来たことをさす。
 人生には必ず冬の季節がやってくる。雨は時の経過、あるいは老いの比喩だろう。天は万人に平等に、時の経過と老いをもたらす。そして、人は死んでいく。

『誰も、おれを罰してはくれない。おれが、おれを罰することしかできない。おばさんが両手に提げていったつっかけは、小さかった。商店街の尽きたあとの道は、暗かった。おばさんはためらいなく、走りつづけていった。』

『つきあってよ、と言っていたおじさんの方は、しきりにあけみの機嫌をとりはじめた。あけみは、ほとんどおじさんを無視して、洗いものを続けた。あけみは六十歳を越えているように見えた。髪はまっ黒で、きれいにセットしてあった。』

 ストーリーが語られ、まるで思い出したかのように、あるいは後付けのように、情景描写がなされる。川上弘美独特の表現形式である。普通は逆だろうと思う。だが、かえって印象が強まる。余韻の残り方が違う。

 ストーリーそのものは、さしてドラマチックなわけではない。ドラマの展開のおもしろさで読む作品ではない。さまざまな比喩が多層的に重なり、人生の幸福とあやうさが、紙一重であることを、くっきりと浮かび上がらせている。

『いろいろなことなど、見たくない。つくづく、思った。でも、見なければ、生きてゆけない。そのことを、残念ながら、わたしはいつしか知るようになっていた。ここまで生きてくるあいだに。
「見たくないのに見るんだねー。」頭の中で、歌ってみる。』

 見たくないものを、それでもちゃんと見て、そのぎりぎりの危ないところを、何とかかわしながら生きてゆく登場人物たち。ある程度人生経験を積んだ人が読むと、本書の良さがより一層理解できるのではないだろうか。

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July 19, 2009

DVD「ウォーリー」感想

 ディズニー/ピクサーによるCG映画

 最初に広告を見たときは1986年の映画「ショートサーキット」の焼き直しかと思いました。なにしろ、ロボットのデザインがあまりにそっくりなものですから。

 でも違いました。「ショートサーキット」のNo,5は、軍事用ロボットが落雷の影響で心を持つという設定でしたが、本作のウォーリーは、ゴミ処理ロボット。しかも、人類が見捨てた地球で、たった一台、太陽電池と、スペアパーツを使ってなんと700年間も働き続けてきた・・・という設定。もうこの設定だけで、うるうるしてきます。特にオープニング。巨大なビルを俯瞰で見るシーン。妙に赤茶けたビル群に違和感を感じて見ていると、カメラはそこへぐぐっとズームアップ。実はそれはウォーリーがゴミをプレスして作ったブロックを丁寧に一つずつ積み上げたものだったという・・・。

 こういう設定大好きなんです。しかも、この設定部分を語る約30分間、台詞がほとんどありません。細やかな演出の積み重ねで、実に静かに、でも豊かに見せてくれます。こういう語り方は、日本人が得意にしていたと思うのですが、昨今はディズニーがすっかり自分のものにしてしまっているんですね。

 途中から人間が出てきたりすると、もう普通に今までのディズニー映画になってしまいます。船長が立って歩くシーンとか、どこかのアニメのパロディーのようで、大笑い。エンディングも、ディズニーらしい終わり方。でも、エンドロールの見せ方は、日本のアニメ映画やゲームのエンドロールのように、細かい芸と心配りが散りばめられていて、むむ、結構日本を研究してるな、という感じです。

 おまけの短編、宇宙船を修理するロボット、バーニーのお話も、やはりほとんど台詞なしですが秀作です。ロボット同士の無言の会話、その間の取り方が絶妙です。

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July 12, 2009

中村美知夫「チンパンジー ことばのない彼らが語ること」感想

 ここ10年くらいの間に、野生チンパンジーの観察報告から、衝撃的な事実(他グループとの戦争や、カニバリズム等)が次々とニュースになる時期がありました。それを見るたびに、「ああ、人が犯す過ちは、既にチンパンジーも犯しているんだなあ。きっとDNAの中にそういう要素が含まれていて、だから、我々は戦争や犯罪を犯すんだろうなあ。」などど妙に納得した気分になったものでした。本書は、そういう考え方は、人が自分で自分を納得させたいがために、観察結果の一部分を自分に都合よく解釈しているのではないか、というなかなか刺激的な主張をしています。
 以下に本文の要約を載せます。
『1996年ランガム「男の凶暴性はどこからきたのか(悪魔のようなオス-類人猿とヒトの暴力の起源)」によると以下のような主張がなされている。
 ヒトの暴力性はヒトだけのものではなく、チンパンジーと共有されたものだ。凶暴でオス中心のチンパンジーと、平和でメス中心のボノボという二項対立図式。
 これに対し、マークスは、そのような解釈には、解釈する学者の姿勢が投影されていると指摘している。自分との共通点をチンパンジーに見いだそうとしていると言うのだ。ヒトには凶暴ではない男もいるし、平和的でない女性も当然のことながら多数存在するというのだ。
 チンパンジーも、オスが単純に悪いことばかりをしているのではないのと同様、メスもまた単純に母性愛の化身ではない。
 子ども同士の喧嘩から発展するパターンは多い。最初は仲良く遊んでいた子どもたちも、だんだんエスカレートしてしまい、一方が悲鳴を上げることはよくある。すぐに泣かされた子の母親が飛んでくる。母親は我が子に非があるかないかなど関係なく、かならず自分の子どもに味方する。子どもの方もよせばいいのに、母親が来たことで気が大きくなって、母親をバックに反撃を加えたりする。泣かせたほうの子が今度は悲鳴をあげることになって、そちらの母親も駆けつける。母親の友達のメスも入り混じってギャアギャアと大騒ぎになることもまれではない。
 人間の社会で悪となるような行動はチンパンジーの世界にもいくらでもある。例えば強奪。ヒト以外の霊長類では、自分で採った食べ物はすぐに食べるため、そもそも何か価値のあるものを長時間所有するということがほとんどない。例外が肉である。肉は消費する(とらえる→食べやすい状態にする)のにある程度時間がかかるからだ。チンパンジーはアカコロブスという小型の猿を捕らえて食べる(このシーンを初めて映像で見た人は、サルがサルを食べるなんて! と、ほとんど皆ショックを受けるのだが、人間だって似たようなこと《大型哺乳類を大量に殺して食べる》を日常的にしているではないか。と言われれば何も言い返せなくなってしまう)が、その時に獲物の奪い合いが発生する。
 チンパンジーには政治的駆け引きや謀略、欺きといった行動が見られる。
 まず政治的駆け引き。他のオスと連合を組んで、自分の実力だけでは得られない地位を得る。状況によっては連合相手を変えることで自分の利益を最大限のものにする。具体的には、同盟相手のオスには丁寧に時間をかけて毛づくろいをし、肉を気前よく分配する。一方でライバルのオスには徹底的に自分の力を見せつけ、ライバルのオスが他のオスと毛づくろいしようとすれば突撃して蹴散らす。といった行動に出るのだ。
 次に欺き。えさがあるのを知っているのに、優位なチンパンジーの前では知らないふりをする。実際はいじめられていないのに、母親の注目をひくためにいじめられたふりをする。ポーカーフェイスで近づいていきなり攻撃をしかけるなど。
 こういった行動は人間社会では、あまり好ましいものと考えられていないが、霊長類の研究では彼らの社会的な知性の証拠として取り上げられる。
 だが、実際には他のチンパンジーと仲良くしたり、協力したりする行動も多く観察される。それらは、そうすることが自分にとって有利だからしているのだろうか。利益がなければ彼らはすぐにでも裏切るのだろうか。現代は、ダーゥイニズムの影響で、生物学の中心的な理論が、競争の原理で語られることが多い。ダーゥイニズムがここまで広く受け入れられるようになったのは、我々ヒトの現代社会のほとんどが競争の原理で成り立っているからだ。
 チンパンジーは同種個体を殺すことがあるし、強奪をするし、相手を出し抜いたり騙したりもする。オスだけでなく、メスだって喧嘩するときは喧嘩する。それは事実である。だが、それだけが強調されることは誤った見方である。
 殺しは悪か? 人も自分が生きるために殺す。そもそも自然界に見られる事実を人間界の価値に変換することが間違っているのだ。人間の道徳を、自然界から得ようとするのは誤りである。』
 また、文化についての考察もおもしろかったです。文字や言語を中心とした情報伝達によって、我々人類は他の生物を圧倒し、高度な文化を築いてきたと考えがちです。しかし、文化とはそのような、自分たちの生存に直接的な利益を生むものだけを限定して言うのだろうか? 人間にもハグや握手など、人種によってまったく違うあいさつがある。しかもそれらは、さほど機能的でも効率的でもないではないか。というのが本書のもう一つの主張で、なかなか説得力があります。
 今度から動物園のサルを見るときは、本書の内容を思い出してみようと思います。 

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July 05, 2009

湊かなえ「告白」と歌野晶午「絶望ノート」感想

湊かなえ「告白」

 先生の娘を殺したのは一体誰なのか? 一つの事件を、登場人物それぞれの視点から語る、多視点タイプの小説です。

 それぞれの人物にはそれぞれの事情があり、誰の判断が正しいのか、読めば読むほどわからなくなる・・・というよくあるパターンなのかと思ったら、違いました。ストーリーは結構二転三転するんですけど、結局はヒロインが復讐を完遂する話なんですね。こういう、自意識の肥大した中学生がごろごろいる時代なら、先生は復讐してもOK! みたいな作品を公に発表して、しかもそれを全国の本屋さんが一押ししちゃっていいんですか? 

 モンスターペアレントやケータイいじめに日頃手を焼いている学校の先生の一部は、読んでいる内に、知らぬ間に結構拍手喝采するのかもしれませんが(しませんよね)。

歌野晶午「絶望ノート」
 いじめられたという狂言ノートがもとで、次々に周囲の人間が人を殺していく話です。「神様、○○を殺してください。」狂言ノートに書かれた中学生の願望と、現実に起きた事件との間に、果たしてつながりはあるのか? 

 犯罪者の告白話という形をとっている点、語り手が複数いる多視点タイプの小説であるという点、自意識の歪んだ中学生が犯罪を犯すという点など、湊かなえの「告白」と、類似点が多々あります。しかし、後半の展開はまるで違います。おそらく「自分ならあんな話にはしない」と意識して書いたのではないでしょうか。

 ヒロインの復讐成功話ではなく、ラスト自業自得なところが、歌野流と言えるでしょう。皮肉がたっぷりきいています。

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June 28, 2009

DVD「スカイクロラ」感想

 押井守監督の話題作、 やっと見ることができました。しかもブルーレイディスクがレンタルできたので、大画面で細部にまでこだわりまくった映像を心ゆくまで堪能。本当に大満足の一本でした。

 まず背景やメカニック関係ですが、ぼかしやハイライトを効果的に入れていて、リアルそのもの。ベスパがコーナーにさしかかると、シート下のバネがカーブの内側だけぎゅっと縮む様子まで描写するなど、徹底して細部にこだわっています。それに対して登場人物は、ほとんど輪郭のみ。色も必要最低限しか使わないというたいへん平面的な表現をしています。非現実的な描写と感じました。登場人物が、キルドレという特殊な生命であることの意味が、絵として強烈に印象づけられたような。
 しかも、静止画として見た時には非現実的なのに、動きは超リアルなキルドレたち。ほんのわずかな、何気ない仕草。それを丁寧に時間をかけて一つひとつ積み上げていくように描写していきます。
 自分たちキルドレは、戦争をするために創られた生命(キルドレ=キルとチルドレンからの造語と思われます)。ならば自分たちに生きる意味はないのか? 
 それを必死に探しあてようとしているように感じられました。

 ストーリーも強烈です。国民に平和を実感させるために、企業が代理戦争をするという世界設定からしてまず、皮肉たっぷりです。キルドレは、そのために使い捨てされる人口生命体。国際紛争はすべて話し合い(=金)で解決するという平和な社会に、生まれた時からどっぷり浸かっている日本人に、平和のために犠牲になっている者たちへの思いを馳せろと、ひりひりするような感覚で訴えているように感じます。
 老化現象のないキルドレたち。彼らは戦死した後、名前も姿も記憶も新しくなって甦り、再び戦場に戻ってくる。でも、新聞を読み終えた後、几帳面にそれを折り畳まないと気が済まないとか、煙草に火を点ける時に使ったマッチを必ず二つ折りにするとか、基本的なパーソナリティは以前と変わらない。リセットされたはずの記憶の中で、戦争という死と隣り合わせの状況の中で、彼らは自分たちが今ここに生きていることの実感を必死で探そうとする。いったい、生は死を思うことでしかリアルに感じられないのだろうか?
 風や光、毎日繰り返される穏やかで何気ない日常の中に、生を感じる一瞬。そういった繊細な描写が印象に残る作品です。

 劇中の音楽もすばらしいのですが、効果音も大変リアル。ぜひこの非現実的なのにリアルな世界を、よい環境の装置を使って体験して欲しいと思います。

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